これは、2002年6月4日〜18日に、イタリア人演出家ジャンカルロ・ナンニさんのワークショップ(15日休み。17日、18日は発表会)に参加したときに、私が自分の台詞をどのようにかえたかの記録です。
ワークショップでは、ナンニさんが自分の劇団で上演したのと同様の、チェーホフの「かもめ」から台詞を抜粋・再構成したテキストを使用しました。政治的、社会的な部分は取り去り、芸術と愛の話として構成した、という感じです。チェーホフなのに「19世紀」や「ロシア」の部分が見事になくなっている。自分たちにとって芸術とは何か、愛とは何か、ということだけをとりだした形です。
ワークショップには、【P4】の4劇団から9名の俳優が参加しました。第1日は、
「自分が似ていると思う動物になって自己紹介をしてください」
「オーディションに行ったと思って、覚えている台詞を言ってください」
といった内容だったけれど、二日めには配役が決まり、「かもめ」のテキスト中心のワークショップになっていきました。私は、ナンニさんから、
「イリーナの役をやるかい?」
と聞かれましたが、マーシャがやりたかったのでマーシャにしてもらいました。理由はいくつかありました。「お母さん」や「お姉さん」の役をすることが多いのでお母さんはやりたくなかったとか、ナンニさんの劇団の公演でマーシャがステキだったとか、その公演での母と息子のものすごく濃密なシーンに圧倒されてて自分にそういうのができるとは思えなかったとか(そのシーンは3幕なので、結局今回のワークショップではやりませんでした)。
稽古日記を付けなかったので、何日にどんなことをしたか、ということは忘れてしまいました。残念です。参加者は、話したり舞台を観たり顔を見たりしたことのある俳優がほとんどでしたが、こういう、いっしょに何か作り上げるということをやってみると、あーこの人はこういう人なのか、という発見がたくさんあって興味深かったです。あー自分はこういう人間だったのか、というのもありました。
日本語テキストは、神西清訳(新潮文庫)を、ナンニさんの劇団の日本公演の日本語字幕用に多少修正したものでした。ナンニさんの使用しているイタリア語訳が現代語なのに比べて日本語が古いということで、言いにくければ各自が直していい、ということになりました。ワークショップ全体の内容からいったらとても些末な部分の記録なのですが(第一ナンニさんとはほとんど関係ない……)、私が自分の台詞をどのように直したかを、以下に記します。
それぞれの台詞について、元のテキストはどうだったか、私がどう変えたか(変更部分を赤で示した)、その台詞に関する説明、の順に述べています。
松田 弘子
2002年6月・記す
1
つまらないことを。お気持はありがたいと思うけれど、それにお応えできないの。それだけのことよ。
晩(おそ)くなって、ごろごろザーッときそうね。あなたはしょっちゅう、お金のことでブウブウ言っているのね。あなたに言わせると、貧乏ほど不仕合せなものはないみたいだけれど、あたしなんか、ボロを着て乞食ぐらしをしたほうが、どんなに気楽だか知れやしないわ。……あなたには、わかってもらえそうもないけど……
つまらないことを。お気持はありがたいと思うけれど、それにお応えできないの。それだけのことよ。
晩(おそ)くなって、ごろごろザーッときそうね。あなたは、お金のことで文句ばっかり言ってる。あなたに言わせると、貧乏ほど不仕合せなものはないみたいだけれど、あたしなんか、ボロを着て乞食ぐらしをしたほうが、どんなに気楽だか知れやしない。……あなたには、わかってもらえそうもないけど……
冒頭。このシーンは元々マーシャとメドヴェージェンコの会話だが、俳優たちが輪になって座り、一人一つずつ順番に台詞を言っていった。私にはたまたまこのマーシャの台詞があたった。このシーンは台詞を変えないことになっていたけれど「あなたはしょっちゅう、お金のことでブウブウ言っているのね。」(ちなみにこの部分、神西清の訳ではありません)というのが、覚えられない、言えない。で、発表会当日になって上記のように変更した。「貧乏ほど不仕合わせなものはない」というとこも、なかなか安定せず、「〜ことはない」と言ったりしていた。
2行めいきなり天気の話になるので、その前に空気の匂いをくんくんと嗅いだ。
2
ご自分で父におっしゃってくださいまし、あたしはご免こうむります。あしからず。さ、行きましょう!
ご自分で父にそうおっしゃってくださいよ。あたしはやですよ、そんなおつかい。すいませんけど。せんせい、行きましょう!
「犬の鎖を解くようにお父さんに言ってくれ」とソーリンに言われて答える台詞。
最初、「くださいまし」だけ変えてそれ以外は原文どおりにやるつもりだったんだけど、他の人たちの台詞がだいぶ現代口語になってきたので、シーン内の会話のバランスを考え、「ご免こうむります」や「あしからず」の面白さを捨てて、私の受け答えももっと口語的にした。
「せんせい」は、メドヴェージェンコのこと。声を掛けるとき、メドヴェージェンコとだいぶ距離があるので、「さ、行きましょう」ではだれに話しかけているのかわからなくなるので呼びかけ語を入れた。ちなみに、ナンニさんは、メドヴェージェンコのことを「マエストロ」、「マエストロ」と言っていた。
3
幕、袖が両側に一つずつ――その先は、がらんどうだ。書割りなんか、一つもない。いきなりパッと、湖と地平線の眺めが開けるんだ。幕あきは、きっかり八時半。ちょうど月の出を目がけてやる。結構だな。
(変更なし)
コースチャの台詞だが、各自が言うことになった。
4
お前さんは、自分の脚本がおっ母さんの気に入らんものと、頭から決め込んで、しきりにむしゃくしゃ――とまあいった次第だがな。案じることはないさ――おっ母さんは、君を崇拝しているよ。
(変更なし)
ソーリンの台詞。このあたりのコースチャとソーリンの会話を、イリーナ以外の8人で台詞を分けて言った。「イリーナのパーティに招かれた人々」というイメージのシーン。「回廊」に8人が等間隔に並び、お互いを見たり観客を見たりして微笑みながら、音楽に合わせて身体を動かしつつ台詞を言った。私は最初なかなか他の人と振りを合わせられなくて、ナンニさんにからかわれていた。結局、
「きみは、グループの中の可笑しいヤツだから、人とちょっとちがってていい」
ということになった。
このシーンは台詞を変更しないでやるということになっていたので、変更なし。覚えにくい台詞だった。「自分の脚本」と「おっ母さん」の順番が逆になったり、「むしゃくしゃ」が「やきもき」になったり、「案じることはないさ」の前に「なに、」が入ったりした。
5
事のついでに、ちょっと聞かしてもらうが、あの小説家は全体何者かね? どうも得体の知れん男だ。むっつり黙りこんでてな。
(変更なし)
同上。
6
人生を描くには、あるがままでもいけない、かくあるべき姿でもいけない。自由な夢にあらわれる形でなくちゃ。
戯曲というものは、やっぱり恋愛がなくちゃいけないと、あたしは思うわ……
(変更なし)
コースチャとニーナの台詞だが、これも各自が言うことになった。ほんとうにそうだと信じているように言ってほしい、という演出だった。
7
七三年のポルタヴァフェアで、あの女優はすばらしい演技を見せましたっけ。ただ驚嘆の一語に尽きます! それから、あれはいまどこにいますかな? ラスプリューエフをやった時のパーシカ・チャージンもすばらしかった。
アルカージナさん、七三年のポルタヴァフェアでの演技はすばらしかったです。ただ驚嘆の一語に尽きます! あ、それから、あの人はいまどこにいるんですか? パーシカ・チャージン。ラスプリューエフをやった時のパーシカ・チャージン、彼の演技もすばらしかったですよねぇ。
イリーナのまわりに人々が集まって、ちやほやするシーン。もとはマーシャの父の台詞。グロテスクに、しかしハチミツのようにとろーりと、という演出だった。こちらに関心のないイリーナに一生懸命話しかけてる形になるので、頭に呼びかけを入れさせてもらった。イタリア語訳では「ポルタヴァフェアでのあなたの演技」となっているそうなので、日本語もそのようにかえた。でもこれに答えるイリーナの台詞が「あなたは大昔の役者のことばっかり言ってる。そんなの私が知るわけないでしょ」という感じなので、イタリア語のほうがもしかしたらまちがっているのかもしれない。ロシア語がわかればなぁ〜、と思った。
3〜7の台詞を言うときの私は、「マーシャ」ではない設定だった。3、6は、おそらく俳優としての私自身に近いキャラクター。4、5、7は、「イリーナのパーティに集まった客」ということになるんだと思う。
ナンニさんの劇団の「かもめ」の公演を観たとき、こういうふうにキャラクターが変わっていくところが、観ていて最初わからなくて、なかなかその世界に入っていけなかった。私たちのワークショップでも、シーンによって、「かもめ」の登場人物として存在したり、俳優としての自分としてその場にいたり、という変化があり、しかも各俳優によって自分がどうそこにいるかの解釈がバラバラなところもあり、やっているとその辺りがとてもおもしろかったけれど、観ている人にはどのように見えたのだろうか。
8-1
あたし行って、捜してみましょう。
あたし行って、捜してみますよ。
イリーナが「さっきはコースチャに悪いことをした、気がとがめる」というのに対して言う台詞。イリーナがときどき「さがしてくるわ」と言うので、そのときは「いえ、わたしが行って捜してみますよ」というふうに答えた。
8-2
コースチャさん、コースチャさん!
(変更なし)
8-1に続く、コースチャを捜して歩いているところ。
9-1
ほかに言いようがなくなると、みなさんおっしゃるのね――若い、若いって……
もっと若かったら、もっと若かったら。ほかに言いようがなくなると、みなさんそうおっしゃるのね――もっと若かったら、もっと若かったら、もっと若かったら……
「あー、もっと若かったらなー」というドールンの台詞を受けて言う。最初に「もっと若かったら、もっと若かったら」とドールンの言葉を繰り返すのは、演出の指定。最後の部分は、ドールンの動作で遮られるので、2回半から3回くらいの繰り返しになった。
このシーンをやってみる前、ドールンと私に、ナンニさんはシーンの説明をした。ここでマーシャが走っていってドールンを押す。ドールンがマーシャを突き飛ばす、等々。マーシャがいきなりおこるので、私は最初びっくりした。自分自身若いのに絶望してるから「あぁ、年さえ若ければなぁ〜」って言う人のことが許せないんだろうなと思ったら、方針が立ってきた。
9-2
ちょっと待って。
(変更なし)
去ろうとするドールンを引き留める。このシーン、ここから先いっさいドールンを見るな、と言われた。
9-3
もう一ぺん、あなたに聞いて頂きたいことがあるの。ちょっと聞いて頂きたいの。……わたし、うちの父は好きじゃないけれど……あなたには、おすがりしていますの。なぜだか知らないけれど、わたし心底から、あなたが親身なかたのような気がしますの。……どうぞ助けてください。ね、助けて。さもないとわたし、ばかなことをしたり、人生を滅茶々々にしちまうわ。
もう一ぺん、あなたに聞いて頂きたいことがあるの。お願い、聞いてください。……わたし、うちの父は好きになれないけれど……あなたのことは頼りにしているんです。なぜだかわからないけれど、ほんとうに親しい、懐かしい人のように感じているんです。……お願い、私を助けてください。ね、助けて。そうじゃないとわたし、きっとなにか、ばかなことをして、人生を滅茶々々にしちゃうと思うんです。
「親身なかた」というのはよく意味がわからなかった。イタリア語を英語に訳したテキストでは、その部分は「私たちには共通点が多い」というふうになっていた。ナンニさんから、
「マーシャは、ドールンが自分の実の父親ではないかと思っている(今回使っていない部分の「かもめ」のテキストに、マーシャの母親とドールンの意味ありげな会話がある)」
と言われていたので、なんとなくそのような感じの出るような言葉を選んでみた。「親しい、懐かしい」と形容詞を並べるのは、ちょっとかっこよすぎる(文学的すぎる)かなーとも思ったが、あえて使った。
ここの例で顕著なんだけど、今回台詞を直しながら、
「ああいう言葉で思考・行動するからああいう展開になるんで、これを完全な現代口語に直したらこういうストーリーにならないだろうなぁ」
ということを思った。だから、どこをどのくらい直すか、という判断がむずかしかったし、おもしろかった。
9-4
わたし辛いんです。誰も、誰ひとり、この辛さがわかってくれないの! わたし、コースチャを愛しています。
(変更なし)
「この辛さを」と言いがちだった。戯曲の指定では「わたし、コースチャを愛しています」はドールンの胸にもたれて小声で言うことになっているんだけど、ナンニさんから、ここは言う前に充分「間」をとって、心臓からしぼり出すように(心からの真実の言葉として)言う、という指示があり、しかもドールンを見ないわけだし、床というかドールンの靴あたりを見ながら絶叫していた。
10
わたしは、こんな気がしますの――まるで自分が、もうずっと昔から生れているみたいな。お儀式用のあの長ったらしいスカートよろしく、自分の生活をずるずる引きずってるみたいな気がね。……生きようなんて気持が、てんでなくなることだってよくありますわ。
わたしなんて、もうずっと昔から生きてるような気分です。着物のすそを引きずるみたいに、自分の人生を後ろに長く、ずるずる引きずって歩いてる気がする。……生きようなんて気持がぜんぜんなくなることだってしょっちゅうです。
この倒置は、翻訳者ががんばったところだろうと思ったけれど、「みたいな。」とか「気がね。」とかで終わるのは、どうにもこうにも変だった。文のアタマから「〜引きずってるみたいな気がね。」までが一つの内容の固まりになっているけど、私にはちょっと長すぎるように感じたし。
「お儀式用のあの長ったらしいスカート」は、英語で見たらただtrain(もすそ)だったので、どんな服かを特定しない方向で直した。そこをシンプルにした分、「後ろに長く」とか「引きずって歩いて」とかで具体性を持たせた。
11
くさくさしてらっしゃるんですわ。
落ち込んでる。憂鬱なんですよ。
「コースチャはどうしちゃったんだろう、最近ぜんぜん顔を見せないけど」というイリーナに答えて言う。「くさくさしている」を別の表現に変えようというのは、この台詞を2回言ってみてすぐ決めたけど、なんと変えるかがなかなか決められなかった。英語がHe is feeling depressed.なので、その線で考えた。しばらく「気持ちが沈んでいらっしゃるんですよ」と言ってみていたけれど、敬語を使うのがなんだか変だし、気に入らなかった。「落ち込んでいる」はあまりに現代的で使いたくなかったけれど、「ふさいでいる」「気が滅入る」「気が沈む」などどれもぴったりこなくて、結局上記のような2本立てにすることを、発表会当日に決めた。
12-1
ねえ、あの人の戯曲をどこか、読んでくださらない!
(変更なし)
ニーナに言う。
12-2
あの人が自分で何か朗読なさると、眼が燃えるようにきらきらして、顔が蒼ざめてくるんですわ。憂いをふくんだ、きれいな声で、身のこなしは詩人そっくり。
そんなことない。あの人が自分で何か朗読すると、眼が燃えるようにきらきらして、顔が蒼ざめてくる、ね。憂いをふくんだきれいな声で、身のこなしは、まさに詩人。
戯曲をちょっと読んでニーナが「つまらないのよ」と言うのに反論。つよく反論する、と演出から指定があったので、台詞のアタマに否定の言葉を入れさせてもらった。「顔が蒼ざめて」は「頬が〜」と言う場合もあった。この台詞全体をニーナに向かって、説得するみたいに言ったので、「蒼ざめてくるんですわ」は、「〜くる、ね(そうでしょう?)」と明確にニーナに呼びかける形にした。「詩人そっくり」だとつまり詩人ではないという気がするので、そこも言い方を変えた。
13
もう午食(おひる)の時間よ、きっと。足がしびれたわ。……
もう午食(おひる)の時間よ、きっと。足がしびれた。……
この台詞の前半は、ドールンとソーリンの口論を止めようとして言っている、と演出から指示あり。後半は独白的にしたので「わ」をとった。
戯曲ではここでマーシャは退場するが、ナンニさんから、次にドールンが、
「(マーシャはこれを口実に)台所に行って(ウォトカを)2杯ひっかけるんだ」
と言ったらドールンの顔をたたけ、と指示された。
14
あの教師(せんせい)と結婚します。
望みもないのに恋をして、何年も何年も何か待っているなんて……。いったん嫁に行ってしまえば、もう恋どころじゃなくなって、新しい苦労で古いことはみんな消されてしまう。
わたしのあの教師(せんせい)は、大してお利口さんじゃないけれど、なかなかいい人だし、貧乏だし、それにとてもわたしを愛してくれるの。いじらしくなりますわ。ご本が出たらお送りくださいね、きっと署名なさってね。ただ、「わが敬愛する」なんてしないで、ただあっさり、「身もとも不明、なんのためこの世に生きるかも知らぬマリヤへ」としてね。
望みもないのに恋をして、何年も何年も何か待っているなんて、もう……。わたし、あの教師(せんせい)と結婚します。結婚してしまえば、もう恋どころじゃなくなって、新しい苦労で古いことはみんな消されてしまう。わたしのあの教師(せんせい)は、大してお利口さんじゃないけれど、なかなかいい人だし、貧乏だし、それにとてもわたしを愛してくれるの。かわいそうになるくらい。ご本が出たら送ってくださいね、一言添えて。でも「わが親愛なるマーシャへ」なんてしないで、「身もとも不明、生きる目的も知らないマーシャへ」って書いてくださいね。
今回の発表は「かもめ」の前半、つまり1幕、2幕のみの内容となった。そもそもマーシャの役をやりたいと言った理由の一つが、後半のマーシャとトリゴーリンの会話がいいと思ったからだったので、前半のみの発表と決まったときにはちょっとがっかりした。そしたら、最後に各自が後半(3幕、4幕)から何か台詞を選んで言うことになったので、やった!とばかりにその部分の台詞を自分でマーシャ一人の台詞に直して言った。ほんとうは、3つ別々の台詞。
「〜待っているなんて」のあとに「もう」と付け足したのは、会話じゃなくなったのでたぶんこのくらい説明っぽくしたほうがいいだろうと思ったから。
「ただあっさり」を削除したのは、AじゃなくただあっさりB、と言っているのにAよりもBのほうが長いのは変と思ったからだ。
この台詞を言う前、メドヴェージェンコに追いかけられて逃げ、ドールンに飲酒のことを言われて頬をたたき、ものすごい絶望的な気持ちになって自分の陣地に帰ってきて、壁に向かってキルトを頭からひっかぶって座っているんだけど、この最後の台詞を言うとき、キルトを身体にぎゅーっと巻き付けたまま言ったらどうかな?と、発表会2日めのマチネの最中に思いついて、そのままやってみた。かっこつけすぎだったろうか。ちゃんと演出がついたら、どうなっただろう。