最近、ある横暴な特徴を持った人々の勢力が、急速にその数を増やしているように感じる。もともと多かったのだが、最近の10年ほどでまた急速に増加したらしい。いや、絶対数は変わっていなくて、単にその横暴さが目立つようになってきただけかもしれない。いずれにしても、その身勝手な言動や行動がますます目に余るようになって来たので、文句の一つも書いてみたくなった。今この文を読んでいる人の中にも、この勢力に属する人がいる、いやかなり多いだろうと予想される。そのような人たちは、この文を読んで腹立たしく思うかも知れないが、こちらとしても一方的にやられっぱなしでは悔しいので、批判を覚悟で勇気を出して書くことにする。
この勢力の人たちは、自分たちのことを指すとき「私たち一般市民」「我々普通の日本人」といった言葉で表現する。しかし、彼らの自称を使って話を進めると問題が不明確になってしまいそうなので、ここでは彼ら勢力のことを仮に「シミン」と書くことにする。ひとつ誤解して欲しくないのだが、シミンと非シミンの境界線はあいまいである。明確に線を引いて区別することができるものではなく、あくまで「よりシミン的」というような、幅を持った概念であることをご承知おきいただきたい。これからシミンの持つ性質をいくつかあげるが、それらの性質に多く該当すればするほど、「よりシミン的」な人だと言える。もっとも最近は、下記にあげるシミンの性質全てに該当する、いわば「完全なシミン」が増えてきていることも事実である。シミンの性質を一つでも満たす人ということで考えれば、シミンは今や、多数派を占めていると思われる。
シミンは、核家族の子供として育った人たち、世代的に言うとおおむね1950年代後半以降に生まれた人たちで構成されていると思われる。私も核家族の子供の一人である。核家族の子供は、常日頃から隣近所の子供や同級生たちと比較されながら育てられることが多かった。親たちも、他の親たちのやりかたと自分のやりかたをいつも比較しながら子供を教育するありさまであった。親も子供も、自分の家と他人の家を比べ、自分たちの家庭環境や学校の成績が、平均とどれくらい異なるかをいつも気にするような風潮だった。私たち子供は、高校や大学を受験する際に「偏差値による輪切り」をされた。社会人になってからも、自分と他人を比較し、不景気となった現在は自分が「勝ち組」になるのか「負け組」になるのかを気にしている。このように、核家族の子供の世代には、子供時代からずっと、いつも他人と自分を比較してばかりいて、そしてそのことを大して疑問に思わずに、そのまま大人になってしまった者が多くいる。そして、その世代がついに、社会の中心的役割を担う年齢になってしまった。その結果として、現在のように大量のシミンが世の中を席巻する社会ができあがった、と私は考えている。
では私が定義する「シミン」とはどういった性質を持った人を指しているか、具体的に見ていこう。
上記に述べたシミンの発生過程と、シミンの自称である「私たち一般市民」「我々普通の日本人」という言葉から考えてみればわかるように、シミンは自分たちのことを平均的であると考えており、しかもそれを誇らしく考えているようである。これは私や私が育った家庭の考えと全く反対である。私の親は、私たち子供に「他人と違う個性を持つことは良いことだ」という価値観を強く教育した。私と私の兄弟は、その価値観に基づいて、個性をつぶされないように守られながら育てられた。例えば、子供の私が「何々を買って欲しい」あるいは「何々を習いたい」と親にねだる時、それが「友達の誰々も持っている/やっている」という理由だとわかると、両親は特に強く拒否した。またある時担任の先生に「お宅のお子さんは国語がちょっと苦手のようなので、もう少し頑張ると良いですね」と言われて、母は、「苦手だって別に良いじゃないですか」と答えたそうである。両親は私たち兄弟に「勉強しなさい」とは絶対に言わなかった。学校のテストで良い点をとっても悪い点をとっても、誉められなかったし、怒られなかった。逆に、良い点をとったことを自慢するような態度をとると、「テストが良いからって自慢にはならないよ」と叱られた。「人間にとって、他人といかに違う良い面を持つかが重要なのであり、学校の成績にはほとんど価値がない」という考え方を徹底的に叩き込まれた。今思い出しても、たしかにかなり特異な家庭であったと思う。そして実際、私と私の兄弟は、それぞれ全く異なった、強い個性を持った人間に成長した。私自身がどうであるかの言及は避けるとして、例えば私の4つ年上の兄などは、学校の成績は決して良くなかったし、大人になった今は「個性的」を通り越して「変人」じゃないかとすら思わせるような強い個性を持っている。その兄の性格を私はうらやましいと思っているし、社会的にも、結局この兄が家族の中で最も成功した(つまり名声と収入を得ている)。そんな家庭に育ったので、「平均的」とか「普通」であることになぜ価値があるのか私には全くわからない。同級生が時々使う「○○さんはこういうところが変わっている」という言い方が、実は悪口であるということも、大学生になる頃まで気づいていなかった。
シミンの考え方の基本原理は「多数決至上主義」である。「多数決」というのは字を見れば明らかなように、「多数」の賛成するほうに「決める」ということである。「多数」はわかるとして、それとともに「決」、すなわち全てのことを「決める」「決めることができる」という考え方であるということも、多数決主義の重要な側面である。シミンは全てのことを多数決で決めることができると考えているようである。およそ世の中の全ての真偽、善悪、美醜が、多数決で決まると考えているのではないかと思わせる。多数決とは元来、会議の意思を決定するための一つの方法・約束事に過ぎないのであって、普遍的な真理というわけではない。しかしシミンは、会議に限らず、地域社会はもちろん、日本社会全体、全世界の全ての場所において、物事を全て多数決で決めることができ、また決めるべきであると考えているフシがある。
例えば、ある教団の構成員が市区内に転入するのを認めるべきかどうか、あるいは、日本は捕鯨を中止するべきか、といった問題は、簡単に決められることではない、少なくとも多数決で決められることではないと私は思う。しかし、シミンは、
「住民の大多数が転入に反対しているならば転入を拒否してもかまわない」
「世界の大多数が捕鯨に反対するならば、日本が捕鯨を中止するのもやむをえない」
というように、多数決の原理で判断しようとする傾向がある。多数決はどうしても少数意見の切り捨てを伴う。だから、宗教や文化や芸術など「本質的に数の大小があるようなことがら」については多数決はなじまない。しかしシミンは宗教や文化や芸術が社会でどういう役割を果たしているかをきちんと学んでいないので、世の中に多数決に向かないものは無いと考えているようである。シミンは多数決を絶対的真理だと考えており、多数決に従わない者を「わがまま」と呼んで軽蔑する。また、シミンは、とにかくなんでもかんでも「多数」に従おうとするので、その情報源となる「世論調査」や「ランキング」といったものに執着する傾向がある。
自分や他人の行動規範も多数決の原理で決めようとする。例えば、電車内で携帯電話を使用することの良し悪しについてシミンが議論をすると、下記のようになってしまう。
(電車内で携帯電話で通話しているA、それを注意するB) | |
A | 携帯電話を使わないようにアナウンスはされているが、実際にはみんな電話を使っているから、そんな注意は事実上無効。少なくとも私だけが注意されるいわれは無い。 |
B | いや、電話するにしても普通はもう少し小さい声で話す。大声で電話するのはみんなが迷惑だと感じるので、やめるべきだ。 |
A | 酔っぱらった時とかは誰だって大声でしゃべる。電話ぐらい別に良いではないか。 |
B | 今は酔っ払いはここにはいないし、今は誰も大声で話している人はいない。だからその論理は通用しない。 |
C | いいかげんにして下さい。あなたたち二人の声が一番うるさいです。あなたたち以外の人は全員迷惑していますよ。やめなさい。 |
この場合、Aは自分が個人的に電話を使用したいだけであり、Bは個人的にそれが不愉快だと考えているだけであって、またCは個人的に両者の議論がうるさいと感じているに過ぎないのだが、三人ともその個人的な感情や事情はいっさい語らず、ひたすら多数決原理に基づく主張を展開している。一見すると意見が対立しているように見えるが、「乗客全体の中の多数意見がどうであるか」を全ての判断基準にしようとしているという点に、見事な一致がある。つまり三人とも「多数決主義」という同じ価値観を共有していると言うことができる。
さて、上記の電話論争は私の創作である。今は説明のために例としてわざと書いたが、この例示は実は誤っている。実際には上記のような議論が行われることは、昔の「市民」ならあり得たかもしれないが(もちろん携帯電話がその当時に普及していたと仮定しての話)、現代の「シミン」の場合はこのような議論自体が起こりえないのである。なぜなら、電車内での通話や会話をうるさいと感じても、普通、それを注意することはないからである。
これはシミンの第三の性質による。
シミンは何か言いたいことがあっても、相手が同じ立場の他人(知人でない人)である場合、それを言葉に出すことをためらう。その結果、言いたかったことはシミンの中にストレスとなって抑圧されることになる。これは逆のことも言えて、シミンは同じ立場の他人から何か言われることも極端に嫌う。例えば、シミンは下記のような些細なことであっても他人に言葉をかけることができないし、このような些細なことでさえ他人から言われるのを嫌う。
このような些細なことを、言わないでストレスにしているシミン、言われて不愉快に感じているシミンが大量にいる。このことは、公共機関による「不必要な注意の過剰喧伝」という重大な副作用をもたらす。どういうことかと言うと、他人と言葉を交わさないシミンに代わって、公共機関がその意思伝達の役割を担うのである。公共機関は、上記にあげたようなシミンの要求を、下記のような「注意」の形に変換してアナウンスする。
このようなアナウンスは、近代市民には不必要である。アナウンスの内容はほとんどの人が承知していることだし、もし承知していない人がいたら近くの人が教えてあげればよい。しかし、知らない他人と言葉を交わせない「シミン」は、近くの人に教える/近くの人から教わることができないので、これらのアナウンスが必要になってしまうのである。私も含め、このようなアナウンスを「うっとうしい」と感じている人が実際には存在するわけだが、シミンの考えとしては、このようなアナウンスは「普通の人」は気にしないし、「多数」の利便のために行われているので、うっとうしく感じる少数の人間は我慢するべきであり、それに不平を言うのは「わがまま」だ、ということになる。
次にあげる第四の性質は、実は性質2(多数決の盲信)から簡単に演繹的に帰結されることだが、たちが悪いので特別に一つと数えることにする。
多数決至上主義で、かつ自分たちが多数なので、結局自分たちが正しいという結論になる(三段論法)。増税はするべきではない、とか、公務員の数を減らすべきだ、などの意見をシミンが持つ時、どう考えてもそれはシミンの一方的な立場からの見解であり、「必ずしも正しくない」とする考え方だってあり得ると私は思うのだが、シミンにはそれがわからない。世の中には複雑な問題というものがあって、なんでもかんでも「こっちが正しい」「こっちが間違い」と決められるものではない。しかしシミンは、何でも多数決で決められると考えているから、シミンが常に正しく、シミンと反対の立場の意見は常に誤っていると考える。これまであげた性質1〜4だって、シミンにとっては「あたりまえに」正しいに違いない。シミンの感覚としては
ということになるだろう。しかし私にとってはぜんぜんあたりまえではない。そういう私は、シミンから見ると「一般市民ではない」あるいは「普通の日本人ではない」。そういう私の「わがまま」な意見は切り捨てて良い、ということになる。まったくもって実に横暴な論理だと思うのだが、シミンは、それを別に横暴とは思わず、むしろ「当然」だとすら思うことだろう。かようにシミンは自分が常に正しいと信じ込んでいる。まったく始末の悪いことである。
シミンはマスコミ報道を鵜呑みにする傾向がある。経済月例報告や警察発表の統計なども、そのまま無邪気に客観的なデータだと見なす傾向がある。いやもちろん、ほとんどの報道や発表は客観的に正しいものだと私も思う。しかし、常に、そういうものにはウソや偏向が含まれているのではないかと、批判的な目を持つことは必要である。しかしシミンにはそれがない。全く、大本営の時代から何も進歩がない。「テロの報復として攻撃する」と報道されると「ふーん、そうなんだ」と納得して終わり。「行政の対応が遅れたことが原因」と報道されると「行政はいつも後手後手だ」と怒って終わりである。もう一つ特筆すべきシミンの特徴は、報道で「受動態」が使われる時に、その主語が、自分たちシミンであると考えることである。報道で受動態が使われると、シミンは、最初から自分たちがそう考えていたように納得してしまう。例えば、「南アフリカの今後の動向が注目されます」と報道されればシミンは南アフリカの今後の動向に実際に注目するし、「テロの首謀者と見られるビンラディン氏が潜伏していると考えられている地域」と報道されれば、シミンは、「ビンラディンをテロの首謀者と見」、「その地域に潜伏していると考え」てしまう。シミンが何を考え、どう感じるかは、何もかも、受動態をうまく使えばマスコミの思いのままである。(ということはすなわち、権力者の思いのままである。)報道された内容自体が、誰かに操作されているのではないか、誤って、あるいは偏っているのではないか、と疑う思考回路を、シミンは全く持っていないように思える。
次の六番目の性質、これこそ、シミンの性質の中で最も悪質なものである。
たしかに、鎖国時代なら、外国との交流が無いばかりでなく地域間の交流も極めて少なかったから、同一地域の住民のメンタリティーには共通点が多く、互いに気持ちを想像してかなりの部分を理解しあうことができる面はあったかも知れない。しかしそれは近代以前の話である。現在の世界は江戸時代の日本とは違う。世界には様々な人種、宗教、思想が存在する。日本国内だけで考えても、昔とは比べ物にならないほど多様な価値観が遍在している。だから、人の考え方や感じ方だってバラバラである。実際の人間同士は「互いに想像できないぐらい」異なっていることも多くある。しかし、シミンは不運にも、隣近所との差異ばかりを気にしながら育ってしまった世代であり、価値観が多様に存在することを十分に認識しないまま大人になってしまっている。そこに「同じ日本人」という昔から細々と続いていたナショナリズムが呼応して、「日本人同士なら気持ちをわかりあえる」というおかしな迷信がリバイバルしてしまった。さらに「世界の人類は皆兄弟」という軍国時代のスローガンが復活して解釈が全世界に拡大され、最終的に「人間同士は誰でも努力すれば気持ちを互いにわかりあえる」という幼稚な思想が完成した。
シミンは「人間同士は皆互いにわかりあえる」と思っているので、「相手の立場に立てばその人の気持ちがわかる」という致命的な誤認識を持っている。実に無邪気に、「イスラム教徒の立場になって考えれば」とか、「在日韓国人の身になってみれば」などという発想を平気でする。そして、わかったような気になる。逆に、自分の立場をちゃんと説明すれば、自分の気持ちを誰にでもわかってもらうことが可能である、とシミンは考える。つまり「相手の気持ちは自分では絶対にわかってあげらないかもしれない」「自分の気持ちは相手には絶対にわかってもらえないかもしれない」という発想がすっぽり欠落しているのである。そして「相手の気持ちをわかる能力」をどれだけ持っているかが、シミンが人を評価する際の重要な基準になっている。「相手の気持ちをわかる能力」を、「思いやり」と言い、思いやりの能力の高い人を「やさしい人」と言う。シミンにとっては「思いやりのあるやさしい人」というのは良い評価である。そしてシミンたちはいつも、相手の気持ちをよりわかる、思いやりのあるやさしい人間になりたいと努力している。もし私が、「思いやりのあるやさしいかたですね」などと言われたら、顔では感謝するかもしれないが内心は「気持ち悪い」と感じるだろう。しかし私がそこでなぜ気持ち悪いと感じるか、シミンには「わからない」。しかし、シミンはそうは考えないだろう。私が「思いやりがある」と言われてなぜ気持ち悪いと感じるかを、私がちゃんと説明すれば理解できる、と思っている。
この「人間同士は気持ちを互いにわかりあえる」という文を逆から言ってみると、これがいかに恐ろしい思想であるかが見えてくる。「人間同士は気持ちを互いにわかりあえる」ということは、逆に言えば、「気持ちをわからない相手は人間ではない」という恐ろしい発想になる。だからシミンは、どうしても気持ちがわからない相手、例えば、ヤクザ、浮浪者、特定の宗教団体構成員、などを、人間扱いしない。
つまり、シミンは基本的に差別主義者である。しかしシミンは、自分が絶対正しいと思っている(性質4)から、私が「ヤクザや浮浪者や宗教を差別している」とここで主張しても、おそらく、「そういう人たちは特別なのだからある程度差別されるのはやむをえない」あるいは「悪いことをした報いを受けているのであって差別ではない」とか答えるに違いない。もうこの時点で論理が破綻している。「破綻している」と言いっ放しでは納得しない人もいるかも知れないから、一応反論してみようか。まず第一に、そういう人たちは特別ではない。同じ人間である。シミンではないだけである。だから差別してはいけない。第二に、そういう差別される人たちは、悪いことはしていない。悪いことをした人と同じ組織に所属はしている(いた)かも知れないが、本人が悪いことをしたわけではない。したとしても刑罰という形で報いを受けているはずである。だから悪いことをした報いをここで求めるのも誤っている。以上。
これで完璧に反論が成立していると私は思うのだが、シミンはこれでは納得しない。自分たちが常に正しいと思っているからである。「一部の人のために一般市民が不愉快な思いをするのは間違っている」とか、「刑罰だけでは償えないことがある」とか、自分たちが正しい理由をとっかえひっかえ次から次へと持ち出してくる。先ほどの主張はどこへやらである。じゃあもう一回反論しておこうか。まず前者について。法的根拠が何も無い「不愉快」などという感情的なことがらを理由にして、法律で認められた権利を侵害して良い理由は何も無い。次に後者。刑罰だけでは償えないことは、たしかにあるかもしれない。しかしそれを償わせることを目的としての勝手な個別の不利益の強要は、私刑であり、法で禁じられている。以上。終わり。
しかしこれでも、シミンは絶対に納得しない。自分たちが常に正しいと信じているからである。自分たちが間違っているのではないか、という可能性は、本当に全く考えない。例えば「法的根拠が無くても、住民投票や署名運動の結果は考慮されるべきだ」とか「テロを撲滅するのは国際的な流れだ」とか言い出す。もうきりが無い。一つの主張の旗色が悪くなると、それは捨ててしまって別の主張を持ち出す。それにも反論されると、また新しい主張を持ち出す。いちいち反論するのにつかれて反論をやめて放っておくと、「反論が無いので認めたとみなします」とか言って議論に勝った気になる。これは子供がよくやる討論戦術で、ネットの掲示板などでも時々見かけるのだが、まったくあほらしい限りである。
これは性質6と実は同じことなのだが、観点が違うので一応別にしておこう。シミンは、自分と他人の考え方や感じ方が、基本的に同じだと考えている。自分がされたら嬉しいが、それをされたら逆に嫌がる人だっているかもしれない、という発想をすることができない。まぁはっきり言わせてもらえば、自己と他者の区別がついていない、自我が未分化、未発達なのである。だから、自分がされて嬉しいことを相手にしてあげて、相手が喜ぶ姿を見ると、まるで自分のことのように喜ぶ。そこまでは無害なのだが、もしそこで相手が喜ばないと、逆に怒ってしまう。自分がせっかく「あなたの気持ちを考えて」あげたのに、「その気持ちをわかってくれない」のは「思いやりがない」、というわけである。しかし好意をわかってあげられなかっただけでいちいち怒られていてはたまったものではない。だいたい、最初から感謝を期待して行う好意など、真の好意とは言えない。
性質8を別の形で応用すると、非常に理不尽な結論が出るのでご紹介しよう。性質8を応用すればわかるように、シミンは自分がされて不愉快なことを他人にしたら必ず嫌がられると思っている。そうすると...
自分が相手から不愉快なことをされた | |
↓ | |
自分と相手は同じ感じ方をする(性質8)から、もし立場が逆だったら相手が不愉快に感じるはずで、相手はそれをわかっているはずだ | |
↓ | |
だから、私が不愉快になることを知りつつ、不愉快なことをしたということだ | |
↓ | |
したがって、相手には悪意がある |
つまり、不愉快なことをする人には悪意がある、とシミンは短絡的に考える。
人間というものは時に、悪意があるように見えても実際には悪意を持っていない場合だってあるのだが、シミンはその可能性に気づかない。「自分だったら悪意が無い限りそういうことはしない」、ということを根拠に、「そういうことをする相手には悪意がある」、と結論づけてしまう。シミンは、全てを自分の物差しにあてはめてしか考えることができない。子供の頃から人間の価値を一つの物差しでしか考えてこなかったためである。
だいたい以上が、私が考えるシミンの定義である。シミンの性質をもう一度まとめておく。
さて、あなたはいくつ該当しただろうか。一応念のため言っておくが、私自身は、こんな文章を書いているくらいだから、もちろん上記の一つにも該当しない。
シミンの特徴が複雑に絡み合った好例がインターネット上にある。「アンリンクフリー」という概念である。アンリンクフリーは、今かなり急速に広まりつつあるようなのだが、その主旨を、あなたは素直にそのまま受け入れられるだろうか。私はアンリンクフリーに違和感を感じる。実は、今回このような長文を書くきっかけとなったのは、ネット上でアンリンクフリーを発見したことである。アンリンクフリーの主旨が、最初どういうことなのか私にはよくわからなかった。しかし、アンリンクフリーを掲げる人たちはさも「すばらしいこと」のようにアンリンクフリーを強調する。この違いはいったい何なのか。その違いの分析を進める内、シミンの概念に思い至り、今お読みいただいているこの文が完成した。
ではアンリンクフリーとは何かという話から。提唱者の説明を読んでいただいても良いのだが、一応ここでも説明しておこう。アンリンクフリーとは、リンクフリーとセットで語られることが多い概念である。リンクフリーが「リンクはご自由にどうぞ」という意味であるのに対し、アンリンクフリーは「リンクを外すのもご自由にどうぞ」という意味である。使い方は、ホームページで「このサイトはリンクフリー&アンリンクフリーです。リンクを張るのも外すのもご自由にどうぞ」のように表記する。
リンクフリーはまだわかる。リンクする際はご連絡くださいと言っているサイトが存在するので、自分のサイトはそういう連絡は必要ないと表明する意味で、リンクフリーと表記することは、まぁ良いと思う。しかし、リンクを外すときは連絡を下さい、と表明しているサイトは存在しない。全てのサイトはリンクを外すのはリンクを張る以上に自由であるはずである。だから、アンリンクフリーという表記は完全に冗長であり、無駄である、と最初私は考えた。アンリンクフリーを提唱したishinaoさんのサイトの説明を読んでも、初めは何だかよくわからなかった。
ある日、私は自分のリンク集からある知人のサイトを削除することにした。先方のサイトの移転などもあってページを訪れる頻度が減ってしまい、サイトを責任もって紹介する自信がなくなってしまったからである。その時、その知人が「逆リンク集」を作成していることを思い出した。逆リンク集とは、自分のページにリンクしているページを見つけたら、勝手に逆にリンクを張り返す、というものである。その知人のサイトには私のほうから先にリンクを張っていたので、その逆リンク集に私のサイトも記載されていた。そこで、先方の逆リンク集の整合を保たせるため、私がここでリンクを外すことを相手に知らせるべきなのだろうか、と、一瞬考えたのだ。その瞬間、アンリンクフリーとはどういうものなのか、疑問が一挙に氷解した。アンリンクフリーは、シミンの発想から生まれたものであったのだ。だから私には最初理解できなかったのである。
アンリンクフリーを誕生させた心理は、下記のようなものだと思われる。
いかがだろうか。アンリンクフリーは、シミンの性質、
などが絡み合ってできていることがおわかりいただけると思う。このユニークな考え方を最初に思いつかれたishinaoさんには敬意を表したい。多数の人の心理を分析する高い能力が無ければこの発想は思いつかないだろう。しかしそれを、シミンたちが我も我もと取り入れ、「アンリンクフリー」と書かれたサイトが無批判に広まっていくのは私は感心しない。アンリンクフリーが拡大し続ける、その原動力となっているのは「普通の人はアンリンクフリーにみんな賛成するよね」というシミンの発想である。シミンの発想だから、下記のような考え方が欠落している。
さてこういうことを私が言うと、シミンはどのように反論するか。おそらくその答えは、
「そういう人は別にアンリンクフリーに賛同しなくても良い」
である。全くシミンは何もわかっていない。上記のような人たちがアンリンクフリーに賛同しないのはわかりきったことであって、そんなことは問題ではない。問題は、シミンたち自身が、少しでも上記のような人の気持ちを「思いやった」のかということである。アンリンクフリーを爆発的に普及させている人は、みんなでよってたかって、上記のような「特殊」な人に対して強い無言のプレッシャーを与えているかもしれない、ということの自覚があるのか、ということである。
ここであらためて、今ご覧になっている私のサイトへのリンクに関して、私の考えを表明しておこう。「このサイトについて」にも書いてあるように、私のサイトは、いわゆるリンクフリーに分類されるわけだが、リンクする際に「念のため」とか言ってリンク許可を求める類の連絡は、うっとうしいのでご遠慮いただきたい。また、一度張ったリンクを外しても、良いに決まっている。その際に私がどう思うかは全く無関係である。場合によってはリンクを外されて私が不愉快に思うことだって、たぶん無いとは思うが、ひょっとしたら状況によってはあるかもしれない。だからアンリンクフリーなどという態度表明はしない。しかしリンクを外すのはもちろん自由である。
そして、アンリンクフリーを広めようという動きに私は「反対」する。このようなシミン的なものは、多数決至上主義の横行を許し、人間同士はわかりあえるという誤った思想を助ける結果となる。アンリンクフリーという概念自体はユニークだし面白いので、それが紹介されるのは別に良いと思うが、安直にアンリンクフリーと書かれたサイトが増殖していくのはどうかと思う。この「面白いから紹介されても良いけど増殖していくのはどうかと思う」なんていう微妙な感覚も、シミンにはわからないのではないだろうか。こういう時にシミンは「あいまいな態度は良くない。賛成か反対か明確にするべきだ」などと言って、すぐ問題を単純化しようとするに違いない。なぜなら、多数決主義のシミンは、単純な問題を解く訓練ばかりをされており、複雑な問題に立ち向かうのは大の苦手だからである。
アンリンクフリーが普及することによって、多くの人は確かに気持ちが楽になるのかもしれない。しかし、アンリンクフリーが普及すればするほど、それをストレスに感じる人だっている。そういう人がいる可能性を、アンリンクフリー普及賛同者たちは少しでも考えたのか、と問いたい。自分たちと同じアンリンクフリーに賛同する人の気持ちだけは一生懸命考えるのに、反対する人の気持ちは「わからない」からといって簡単に切り捨てる。まったく「思いやり」が聞いてあきれる。大事なのは、どんな言葉も、人を傷つける可能性がある、という認識を持つ事である。シミンはこのこともわかっていない。性質6によりシミンは他人の気持ちがわかると思っているから、人を傷つける言葉はどんなものかをわかっているつもりになっており、そして自分たちが使う「普通の言葉」は人を傷つけないと思っている。また、普通の言葉で傷つく人がいるとすれば、それは傷つくほうが悪いと考えてしまう。自分たちの使う言葉に全く疑いを持たない。
私の書く文章などは、過激なところもあるので、当然多くの人を傷つけてしまっているだろうことは明らかだが、シミンが好む「アンリンクフリー」とか「思いやりを大切に」とか「マナーを守りましょう」とか、そういう言葉で傷ついている人もいる、ということを考えて欲しいのだ。あらゆる言葉は、人を傷つけてしまう可能性を持っているものなのだ。人間は誰しもいつも、自分は誰かを傷つけているという絶望がなければならない。それが真の思いやりである。そんな、普通の言葉で傷つく人がどこにいるかって? シミンたちからは見えないところにいる。シミンたちがそういう人たちを差別するから(性質7)、シミンからは見えないように隠れているのである。しかし、そういう人たちは確実にいる。シミンたちの横暴に絶えつづけ、じっと黙っている。黙っているのは、何か意見を言っても多数決至上主義のシミンに問答無用で切り捨てられることがわかっているからである。
シミンは多数だが、幼児的であり、一方的である。シミンを言葉で説得するのは困難である。シミンに対抗していくには、シミン以外の者が存在をアピールしながら、シミンたちの意識を成長させていくしかない。
隠れている非シミンのみなさん、シミンたちの横暴がこれ以上広まらないよう、少しずつ活動を開始しよう。少数意見を遠慮なく言える社会を求めて。対話のある、豊かな社会を目指して。