つれづれなる日々

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2003年9月の日々

満月かぐや姫


09/30/2003(火)

夕方、近くのホームセンターに行ってみたら、臨時休業だった。じゃぁついでだから、近くの(車で前を通ったことがあって、近くだと思っていたんだけど、ホントは別にぜんぜん近くないのかもしれない)アウトレットモールまで行ってみようと、どんどんどんどん歩いて行ったが、行けども行けどもなくて、日も暮れてきたので回れ右して帰ってきた。1時間ほど歩いたことになる。

ホームページに載せる、9月と10月の分のイラストを描いた。


09/29/2003(月)

朝7時に出発する。米倉の持ち主の筒井さん夫妻とはじめさんとなつさんが見送りに来てくれた。朝方、雨がざんざん降っていたので心配したが、出発する頃にはきれいに晴れていた。

山形道、東北道の、山がせまっていたり平野がひらけていたりの美しい景色の中を、一路、東京に向かう。東京の近くまで来ると、青空の青が薄くなっているのに愕然とした。5時頃、相模大野の倉庫に到着。一部荷下ろしをして、アゴラに向かう人に別れを告げて、私は帰宅。疲れていると思うのだが、遊佐公演の興奮さめやらず、という感じで、眠くならない。

夜、家の人と食事に出掛ける。夜空が、ちっとも暗くない。
「青空も、夕焼けも、夜空も、遊佐に比べて、みんな薄い!」
と訴えてみるけれど、何を当たり前なことを言っているの、と言われる。ま、それはそうですな。


09/28/2003(日)

公演が夜なので、午前中有志で土門拳写真記念館に行った。メインの展示は「室生寺」で、あまり興味が持てなかったけれど、十二神将には惹きつけられた。土門拳の写真で見るのと、実際にそこに行って実物を見るのと、どっちが心が動くんだろう、実物を見る以上に写真に心動くとしたら、それはどういうことなんだろう、などということを考えた。もう一部屋「筑豊のこどもたち」の展示もあり、こっちはたいへん興味深かった。仏像は、土門拳がいてもいなくても、同じ表情をしているだろう。でも人間は、カメラを向けられたら、警戒したりいろいろとすると思う。なのに、写真の中の子供や大人は、カメラなんてまったく意識していないように見える。この表情を撮れたのは撮影した人の努力なり才能なりなんだろうということが、わかる。室生寺の写真に興味を持てなかったのは、そういうところが原因かもしれない。

でも、写真家の作品を見に行ってこんなこと言ってたらダメなのかもしれないけど、記念館の中で私がいちばん「いいなぁ」と思ったのは、脳内出血で半身不随になった土門拳がリハビリのために描いたという、何枚ものクレヨンや水彩の花の絵だった。明るくて、やわらかくて。

昼食は、天ぷら蕎麦。午後は、温泉に行った人もあるけれど、私は宿舎でごろごろ昼寝。夕食は、おかずに、イクラが出た。『ヤルタ会談』の台詞に出てくるから「どうしても食べさせたくて」と、なつさんが言う。

夕食後、きのうと同じく、台詞合わせをして、メイクをして、ポットにお湯を入れて、劇場に向かう。きょうは、7時半からのエッグ・プロジェクト『アキス』を観劇後、自分の本番。観客の笑い声が大きくて、これでは台詞が聞き取れないだろうと思った箇所もあった。普段だったら迷わずしゃべり続けるのだが(きょうも結局間はとらなかったのだが)、ヤルタの場合もしかしたら笑いが静まるのを待って台詞を聞いてもらったほうがいいのかもしれない、と、一瞬躊躇した。

終演後、バラシ。8月末から開催された「遊劇祭2003」共通の客席部分の解体もあったので、2時間ほどかかる。途中トイレ(も倉にはないので、近くの公民館まで行く)に行く道すがら、空を見上げると、満天の星。一気に感動してしまいそうになるが、いやいや待て待て、ここで安易にどっと盛り上がっちゃいかん、と、気持ちを静める。

バラシ終了後、お風呂(温泉)に入ってから、打ち上げ。それぞれ、感想を言い合ったり。きのうと同様、私たちの泊まっている宿舎の一階でだったので、みんなが帰った後もしばらくヤルタ組でだらだら話していた。名残惜しくて。


09/27/2003(土)

朝食をすませ、9時劇場入り。さっそく俳優3人で場当たり稽古を始める。まだ途中のうちに、演出家、到着。開演のキューをどうするか、袖から舞台上が見えないのでアゴラのときのように動きできっかけをとって登場することができないのをどうするか、など、次々と決定し、袖から舞台までの距離が長くなったことに関する変更(台詞を増やす、言うタイミングをずらす、など)を指示していく。

青年団の公演の場合、このように、舞台美術家と演出家と照明家が現場に来て、その会場に合うように、変更や追加をしていく。俳優だけでも処理できないことはないだろうけど、きっとどうしても、「これでは都合が悪いから」「いままでと同じにできないから」なんとかしようというだけの、消極的な変更・追加になってしまう。演出家たちが行う変更・追加は、作品がもっとおもしろくなる方向に向かっている。積極的だ。デザイナーの力。

前半のテンポを直されたりして、場当たり稽古が11時半頃に終了し、昼食。前回、前々回も食事を担当してくださったなつさんが、きょうは芋煮を作ってくれた。

劇場(米倉)は水道がないので、宿舎でお湯を沸かして小道具のポットに入れる。メイクも宿舎で済ませておく。徒歩2分だから、問題ない。2時開演でゲネプロ。各自、これこれの言葉をもっとはっきり言うようにとダメ出しあり。あと、私は、チョコを落としたり、「新兵器」という台詞を「新製品」と言ったり、けっこうてんてこ舞いだった。ヤルタは、まだまだやっていて余裕がない。

5時過ぎ、エッグの人たちも皆いっしょに、夕食。サンマの煮付けたのも、ダイコンのサラダも、何もかもおいしい。その後1回3人で台詞合わせをしてから、劇場に向かう。エッグ・プロジェクトの上演中に、静かに楽屋に入り、着替えて待つ。楽屋といっても倉庫の軒下に平台を敷き、周りに幕を吊ってあるだけなので、すぐ外の受付の声がよく聞こえてくる。

さて開演すると、俳優が、自分も含めてみんな緊張していて、でもそれは緊張して高いところで綱渡りをしているような高揚感のある緊張でもあって、それはそれでやっていてなかなかおもしろかった。と、8分くらいたった頃だろうか、遅れてきたお客さんが入ろうとしているらしく、扉がガタガタし(米倉の扉なので、重い)、最前列のベンチに座っていた(たぶんエッグの)人たちが、中から扉を開けようと席を立って入口に向かい、入ってきたお客さんは入ってきてからも何かしゃべっている様子。そんな客席を目の端、耳の片隅で受けとめながら、自分の緊張がよい感じにほぐれていった。

終演後、交流会。なつさんに、ダイコンサラダとサンマの煮付けの作り方を聞いた。サンマは、出汁昆布をひいて水を入れ、筒切りにしたサンマ、ショウガ、梅干しを入れて煮る。味つけは、酒、砂糖、醤油。


09/26/2003(金)

予定どおり、朝7時に出発。高速に乗ったところで2台合流。演出家は明日単独で現場に入るので、きょうの道中は、スタッフ、俳優あわせて6人。青年団の旅公演というと総勢20数名ということが多くて、こんなコンパクトな旅はめずらしい。仲のいい友達同士で旅行に来ているみたいな、家族旅行のような、不思議な感じ。

事故渋滞があり、サービスエリアから出てもいけなくなって、1時間待つ。ということがあったりなんだりして、予定では8時間で着いて午後3時から仕込み、夕食後場当たり稽古、というはずが、会場に着いたのが午後7時少し前だった。途中新潟県内で、日本海に夕日の沈む、宗教画のようにきれいな夕景を見られたのはよかったけれど(道の駅で食べたイカ焼きもおいしかった)。

もう暗くなった中、筒井米穀店倉庫に到着。さっそく搬入し、テーブル、椅子を組み立てる。舞台装置の仕込みは、絨毯を広げて床に敷く位置を決め、テーブル、椅子を置き、「後ろがあくねぇ」と舞台美術家が、梁から赤いロープをたらした。
「マチコさん、これで、毛糸玉って作れる?」
はいはい、とロープを巻いていくと、床から1.5メートルほどのところに、こぶしくらいの大きさの玉ができた。毛糸玉なんて、最初指2本に何回か糸を巻き付けて、あとはそれを芯にしてありとあらゆる方向に糸を巻いていけばいいだけなんだけど、やったことない人は知らないのかな、と思うとおもしろかった。
「これは、スターリンが夢見た、赤い地球」
だと美術家は言う。本気とも冗談ともとれる口調。

それで装置仕込みが終わり、キャストが衣裳を出して掛けたり、スタンバイの場所を整えたりしているあいだに、照明の仕込みも終了。

今回の公演は、地元の劇団エッグ・プロジェクトの『アキス』との2本立てだ。アキスからヤルタへの仕込み替えの段取りを、私はどうしても今日中に決めておきたかった。もう9時過ぎていて、お風呂(温泉の銭湯が、10時で終わってしまう)に入れないのではと人々が心配顔になっていたけど、タイムスケジュールからずれにずれて、きょう予定していた稽古もできない、仕込み替えもできないでは、あしたあたふたしてしまう、それは避けたいと思い、やってもらった。

9時半退出。お風呂へ。蛍の光の流れる中、閉店の10時まで温泉を堪能。私は、お風呂は、洗うところを洗ってしまうと後もうすることがなくて、ただお湯につかっているというのができないたちだから、お風呂時間が短くても気にならない。それで、他の人への配慮が、ちょっと足りなかったかもしれない。少し反省。

コンビニでビール等を買い、宿舎へ。今回の主催者のはじめさんもやってきて、明日以降の段取りなどを話しながら、歓談。


09/25/2003(木)

きょうも、実寸の取れる稽古場で、『ヤルタ会談』。早めに稽古を終了して、荷造り、積み込み。『ヤルタ会談』は出演者が3人と少なく、舞台装置もないので、こういうときは簡単だ。後部座席を外したワゴンに、クリアケースに入った衣裳、小道具が5箱、制作グッズが1箱。置き道具のディレクターズチェアとテーブルは、コンパクトに折りたたまれて。そのほかいくつか細かい物を積み、巻いた絨毯も積み込んで、無事積み込み終了。と思ったら、チャーチルのステッキを危うく積み忘れるところだった。

帰宅して、自分の荷造り。


09/24/2003(水)

下北沢の駅前で、3歩歩くごとにくらいに、アンケートにご協力を……と言われ、もうとにかく面倒くさくなり、用事が終わったあと、駅に戻らずに池ノ上まで歩いてしまった。

きょうは、実寸の取れる稽古場で、『ヤルタ会談』自主稽古。2回通す。あした、稽古の後、積み込みをして、明後日は、もう出発だ。青年団の遊佐公演は、今度が3度め。


09/23/2003(火)

今朝は、メールでウィルスが、次から次へと送られてきた。だれか、知り合いが感染したんだろうか。

回覧板が回ってきた。中味が、趣味などの講座の案内と通販カタログのみ。持っていく先が、ちょうど、引越挨拶に行ったとき留守だった家なので、挨拶がてら二人で行く。

『ヤルタ会談』自主稽古。きょうも、小さい部屋。都合により50分しか稽古時間がとれず、とめながら一回通したのみ。装置や小道具の確認をして、きょうは早々に解散。


09/22/2003(月)

『南島俘虜記』仕込み。11時に行くと、事務所の台所でお昼の炊き出しの準備をしていたので、そこに参加。サラダの係りになって、40人分なので、キャベツ2個、ピーマン12個千切りにする。「千切り」って言えるほど細くはなかったかもしれない。

夕方、『ヤルタ会談』遊佐公演の買い物。メイク等の、消耗品。


09/21/2003(日)

テレビをつけたら、スターリンの生涯の、最後のほうのことをやっていた。第二次世界大戦の後から、死ぬまで。独裁まっしぐらの頃の話だし、それでひどい目にあった人たちの証言でつづられているということもあって、もうホントにひどい人に描かれていて、死に方もけっこう悲惨で、見ていて少し気持ちがめいった。でもまぁ、それで、『ヤルタ会談』のスターリンの演じ方が変わってくるわけではないのだけれど。

夜、『南島俘虜記』の照明つり込みに参加。


09/20/2003(土)

台風だそうで、雨降りで寒い一日だった。

最近また寝る時間、起きる時間がめちゃくちゃになってきていて(おもに家にいる期間は、どうしてもそうなってしまう)、夕方、空腹と眠気のダブル攻撃にあう。買い物に行こうか、でも雨だしなぁ、寒いし、でもお腹空いたなぁ、とか思っているうちに眠り込んだ。2時間ほど寝て起きると、元気になっていた。寝ぼけた顔と頭のままで、雨の中近所のスーパーに買い物に行き、きょう必要な物とか、なんとなく目についた日持ちのしそうな物とかを買う。


09/19/2003(金)

『ヤルタ会談』自主稽古。きょうは稽古場が使えなかったので、打ち合わせや読み合わせに使う小さな部屋で。帽子を脱いだりかぶったり、お茶のカップを持ったり置いたり、飲んだり、というあたりをもうそろそろ本物でやっておかないと私は間に合わないので、自分の分の小道具だけ持っていって使った。

事務所で、友(アゴラ職員)が、洗濯して乾いたタオルに、マジックで次々「ぞうきん」と書いていた。「雑巾と一緒に洗ったから、(いままで食器拭き用だったけど)これも雑巾になる」そうだ。洗って、汚れが全部落ちたんだから、関係ないんじゃないの、みたいなことを言ったら、でもトイレを掃除したぞうきんとかと一緒に洗ったんで、それで食器を拭くのは抵抗のある人は抵抗がある、という答え。
「じゃあさ、雑巾を洗った洗濯機でその次にタオルやふきんを洗うのはいいの?」
と聞いたら、「そこは目をつぶってもらって」。

雑巾とタオルを一緒に洗うのが、平気なのもイヤなのも、きっと衛生とかは実はあんまり関係なくて、文化というか、その人が世界をどういうふうに定義しているか(意識的にしろ無意識的にしろ)ってことなんだろうなぁと思う。そして、そういうことなんだってわかっている人とだったら、「平気」の人とでも「イヤ」の人とでも私は一緒にやっていけるだろうと思う。でも、絶対の真理のように「雑巾と一緒に洗ったら雑巾」とか「雑巾と一緒に洗ってもタオルはタオル」と言い切る人がもしいたとしたら、そういう人とわかりあうのはむずかしいだろうと思う。


09/18/2003(木)

洗濯物を外に干したり、暑いから涼しくなってから買い物に行こうと考えたり、夕方になって洗濯物を取り込んだりしていると、子供の頃の、おじいちゃん、おばあちゃんと一緒に過ごしていたときの生活のリズムと同じだなぁ、となつかしく昔のことを思い出した。


09/17/2003(水)

家で、引越の片づけと、仕事。洗濯機も、3回まわした。旅公演の後は、どうしても、ね。

夜、劇団の「スタッフミーティング」に参加。『ヤルタ会談』遊佐公演の段取り確認等。


09/16/2003(火)

寝台列車も、普通のホームに着くわけで、考えてみればそれは当たり前なんだけど、通勤の人たちが並んでいたりするごくごく日常的なホームに降り立ったとき、それまで「旅公演」とか「寝台列車」というどちらかというと「非日常」の中にいた私は、そのギャップに、ちょっとびっくりした。

引っ越しして数日で旅に出た新しい住居に10日ぶりに帰ると、運び込んだだけでまだ使ってもいない本棚に、ほこりが積もっていた。あぁ、10日間って、そういう時間なんだなぁ。

17時から、『ヤルタ会談』自主稽古。まずは、台詞の確認。そして、だいたいの段取りを確認しながら、60%くらいの立ち稽古。


09/15/2003(月)

早めに劇場入りして、吹き抜けの会館ロビーでメール。この旅から帰ったらすぐ『ヤルタ会談』(9月27、28日山形県遊佐町にて)なので、稽古場確保のためあっちやこっちにお願いのメールを書く。「稽古場確保」といっても、劇団の稽古場だから、内部の調整で、それほど大変ではないのだけれど。

14時開演。終演後、すぐにバラシ。18時過ぎ、終了。明日朝から稽古のある、『南島俘虜記』組は飛行機で、それ以外の私たちは寝台列車で、帰路につく。列車の中で飲んで話している人たちもいたけれど、私はなんだかもうスイッチが切れたように何もしたくなくなってしまい、カーテンを閉めて一人で寝ていた。けっこう早い時間から眠っていたようで、夜中に目がさめたりしたけれど、おおむねよく眠れた。子供の頃、家族旅行というと列車移動だったので、列車の旅は、落ち着く。


09/14/2003(日)

14時開演でゲネプロ。本番は19時開演。終演後ロビーで、主催者や観客の人たちと「交流会」あり。


09/13/2003(土)

仕込みの続き。午後2時過ぎに終了。今回の公演会場、鳥取県立県民文化会館の、ロビーでメールチェックや掲示板の書き込みをする。どーんと広くて、吹き抜けで、ガラス天井。椅子とテーブルがあちこちに置いてあって、学生が勉強したり、大人が本を読んだりしている。

5時から、場当たり。青年団の「場当たり」は、場当たりといっても最初から最後まで一通り全部のシーンをやることが多いけど、きょうは、ホントに、いわゆる「場当たり」。7時前に終了。


09/12/2003(金)

きのう、終演が9時過ぎで、それから、退出時間まで1時間弱ばらしをした。今朝もばらしの続き。2時間弱で終了し、車に分乗して鳥取市に向かう。途中、お昼は、名物の、つゆを直接かけて食べる蕎麦を食べた。

鳥取の会場で、5時から、搬入、仕込み。淀江町でばらしをしていたのが、はるか昔に感じられる。今朝なのに。

夜、ビールが飲みたいねと家の人と繁華なあたりに行ってみる。入った居酒屋は、メニューに値段の書いてない店で、魚介類がとてもおいしかったけれど、値段もとびきりだった……。


09/11/2003(木)

朝、宿の近くの砂浜の海岸を歩いてみる。私は、海辺に落ちている、波と砂に磨かれてすりガラス状になったガラス片が好きで、集めて、アクセサリーや飾り物を作ったりするのを、趣味の一つとしている。そういう「海ガラス」がないかと探したんだけど、まったく見当たらなかった。残念。潮の具合とかで、日によって様子がだいぶちがうんだろうと思うけれど。

2時開演で、ゲネ。1カ所台詞をまちがえて、そしたら笑いの発作に襲われて、次の台詞はもう段取りも何もなく、ただ言うだけしかできなくなってしまった。相手役の人たちが、落ち着いて、吹かないで続けてくれていたので、なんとか台詞2個分くらいで持ち直すことができたが、あとで演出家におこられた。当然だ。

7時半開演で、本番。


09/10/2003(水)

公演会場が休館日なので、きょうは一日オフ。家の人と二人で、電車で米子に行く。目的の一つは、「グレ電と電源のあるところ」を探すこと。いま泊まっているところが部屋で外線電話が使えなくて、私がメールチェックできない。PHSでインターネットにつなげるようにするにはなんだかソフトが必要で、でもそのソフトはインターネット上からダウンロードしなきゃならないという。それで、まずは、電話回線でインターネットにつなぐため、グレ電。電源というのは、私のノートの内蔵電池が死んでいて、コンセントにささないと立ち上がらないから。電話ボックスではダメ(電源の口がない)なのが、つらいところ。

ようやくそういう場所を見つけて、ダウンロードもインストールもできて、これからはパソコンにPHSをガショッとさせばインターネットにつなげるようになった。便利な世の中ですね。

近所のスーパーでいろいろ買って、部屋で夕食。のんびりとした、いい休日でした。


09/09/2003(火)

朝10時から、昨日の仕込みの続き。真っ白いセットが長い旅公演であちこち汚れてきていて、各会場で仕込みのたびに部分的には塗り直していたんだけど、今回(淀江と鳥取)でこのセットは最後なので、「死に化粧、ではないけれど」(美術家・談)全面的にもう一度塗ることになり、大々的に、塗る。あぁ、暗愚の旅も、もうすぐ終わるんだなぁ。

最近の旅公演では、私は、「荷物は小さいにこしたことはない」と思っていて(そのときどきで、自分の中の優先順位は、変わる。以前は、洗濯に時間をとったりいつ洗濯できるかやきもきしたりするのがいやで、日数分の衣類を持っていっていたこともある)、何日の旅であろうと服は4セットくらいしか持っていかない。そして、「仕込み・ばらし」用の作業服は1セットのみ。これで3カ所乗り切るつもりだったんだけど、予期せぬ残暑でもう汗くさくってたまらなくなり、仕込みが終了するやいなや、作業服を手洗いした。ばらしは木曜日の夜なので、それまでには乾くはず。

場当たりも無事終了し、8時すぎに解散。月のすぐ下に火星が見えた。「満月だ」と人が言うので、「いや、今年の中秋の名月は9月11日だよ」と言うと、「どうして知ってるの?」と言われた。ホント、どうして知ってたんだろう。たぶん最近どこかで、そういうポスターを見たんだと思う。


09/08/2003(月)

昼近くに大和高田を出、列車を乗り継いで、夕方、鳥取県淀江町に到着。小さな静かな町に、大きな荷物を持った、何をやっているのか外見からわかりにくい人たちが、いきなり20人も現れて、駅から町役場(の隣のホール)までの道をぞろぞろ歩き始めたので、そうとうものめずらしかったようだ。

搬入、仕込みを9時過ぎまでして、退出。


09/07/2003(日)

3時から、2回めの公演。


09/06/2003(土)

朝10時開始で、場当たり、2時開演でゲネプロ、そして7時から公演。疲れがたまっているのか、ゲネの前も本番の前も眠ってしまい、身体を起こすために、軽く走りながら台詞を言って、アップした。


09/05/2003(金)

『暗愚小傳』大和高田(奈良)公演、仕込み。新幹線やお店や、室内は冷房で寒いくらいで、外は残暑で暑い。体調を崩さないように気をつけないと。


09/04/2003(木)

家の近所のホームセンターを見に行く。園芸用品、いろんな部品、工具、収納家具、自転車、文房具、照明用具、なんでも揃いそうだ。今度ゆっくりじっくりまた来よう。


09/03/2003(水)

美容院に行く。『暗愚小傳』で髪をアップにしているので前髪を伸ばしていたんだけど、どうしても老けて見えるので、眉毛のだいぶ上で切ってもらった。暗愚のときは、ワックスでびしっと上げる作戦だ。美容師さんに、髪の色を少し明るめにすることを勧められたが、ちょっとまだ決心がつかない。10数年前にショートカットの前髪にメッシュを入れていたことがあるんだけど、当時の写真、いま見るとおばさんぽいんだもん。

青年団のホームページの、ヤルタ会談遊佐公演の記事に、舞台写真が追加された


09/02/2003(火)

残った荷物をバンで運ぶ。旧居に掃除機をかける。ここに住んでいた最後のほうは、荷物の収納がもうまったく崩壊してしまい、足の踏み場もないような生活だった。部屋に対して申し訳ない気持ちになる。新しい住まいではそういうことのないように、ほどほどにがんばって、きれいに維持していきたい。

しかし引っ越しというのは、思った以上に重労働だ。手足が筋肉痛。特に、足の裏。


09/01/2003(月)

いよいよ、引っ越し当日。友2人に、手伝いに来てもらった。4人で搬出、積み込み、並行して最後の最後の荷造り。2トントラックを借りたんだけど、荷物が乗り切らず、残った分は明日私たち二人でやることにし、荷物とドライバーはトラックで、他の人間は電車で、引っ越し先に向かう。4人でどうにかこうにか荷物を運び込み、大まかに家具を配置し、夕方に終了。ご近所に挨拶に行ってから、焼鳥屋で乾杯。


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