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5.ディテイルのプラン


「基本プラン」のところで、色のことを書き漏らしていました。青年団の照明は基本的にナマ明かり(フィルターを入れない)とお思いの方もいるようですが、そうではありません。原則として全てのスポットにコンバージョンフィルターに分類される#B-3という色が入っています。ごく淡いブルーです。色を入れるのは、電球色そのまま(ナマ)だとやや黄色いため、より白く見えるように、 という単純な理由からです。 物理的にはもう若干濃いブルー(#B-4程度)を入れた方が真の白色になるのですが、なぜかそれだとやや青く見えます。色々試した結果、現在では「#B-3標準」に落ちついています。

さて基本プランができたら、基本から外れるディテイル部分のプランを考えて仕込図に加えます。基本から外れる要因は数多くありますので、一口にディテイルと言っても様々な要素がありますが、ここでは という二点に絞って述べます。

基本プランを丁寧に仕込むと、 100人程度の小劇場なら役者の顔は舞台のどこでも十分に見える程度の明るさになります。全体にフレネルスポット(前章参照)を使うため、直接ライトの光をあてていない部分でも、光がまわりこんである程度見える明るさになります。これを私達は「ハレーションで見える」と言います(ちなみに「ハレーション」という単語の厳密な定義からするとこの単語のこの用法は誤っていると思われますが、業界でも一般に使われる用法ですのでご容赦下さい)。しかし、舞台装置や劇場の大きさ、形状等の加減で、ハレーションが十分にまわらず、許容範囲を下回って暗い部分ができてしまうことがあります。

そのような場合、補正として特定位置の役者の顔をねらう照明を仕込むことになります。このような補正はプラン段階で予測することは大変難しく、最近やっと仕込図に反映させることができるようになりましたが、まだまだ止むを得ず現場で追加することも多くあります。で、そのような補正の照明を追加するわけですが、そういうたぐいの明かりを単純に足し算するのでは、せっかく作った美しく対称性の高い「岩城DOS」(前章参照)のバランスを崩してしまいます。

ではどうするかですが、このように一部例外的に加える補正照明には、#B-3よりも一段階ないし二段階濃いブルーを入れます。具体的には#B-4ないし#B-5ということです。これは目の錯覚によるのでしょうが、同じ明るさでも青みがかったものはやや暗く見えるようです。興味のある方は、晴れた日に建物の日向部分と日陰部分の色を見比べてみて下さい。影の部分は、言われてみるとやや青っぽく見えると思います。というか、実際に青いのです。これは空が青いことと関係があります。また、月の光は物理的には黄色っぽいはずなのに、実際の見た目は、その暗さゆえ青白く見える、ということを御存知の方もいるでしょう。そのあたりの関係からでしょうか、もともと私たちの目は、青い光は実際より暗く見えるように出来ているようなのです。余談ですが、一般的に舞台照明では「暗い」という状況を表現するのに青色が多く使われます。このような手法はこの錯覚を起源としている、と私は考えています。

話を戻します。舞台全体に明るい#B-3基調で照明がついている中、#B-4や#B-5の照明を混ぜると、それらは物理的には十分な明るさであるにもかかわらず、人の目には、まるでハレーションのように、最も成功したときには全く存在しないかのように見えます。光があたってないように見えるのに現実に顔が見えている状態、というマジカルな状態が実現できるわけです。このような効果を目的とする照明を青年団のスタッフは「サブリミナルな照明」と呼んでいます。

「サブリミナル」の応用編とも言える例として、今年春の「冒険王」の公演の、ベッド部分の照明をあげることができます。ベッド部分は基本プランの照明は全くなく「サブリミナル」だけで作りました。ベッドというのは寝る場所ですから、明るいことはあり得ません(というのがその時の私の設計方針でした)。しかしそこに役者は長く滞留しセリフを喋るため、そのための物理的光量は必要です。そのため、光量を許容範囲ぎりぎりまで下げ、さらに#B-5を入れて「サブリミナル」で役者の顔を見せるような方法をとりました(それが成功だったかどうか、中には「暗い」とのご指摘を下さったお客様もいらっしゃいました)。

そういった意味で「冒険王」は、現実に演劇で求められる光と、そのモデルとなった架空の光とが、極端に矛盾している希有な例、ということができます。そういう作品に出会った時は強烈なファイトと充実感に満たされます。

何気なく書きましたが、書き間違いではないかと勘違いされないよう繰り返しておきます。比較したのは「現実に演劇で求められる光」「モデルとなった架空の光」です。私が照明を作るとき、現実に求められるのは「役者が見えること」です。そして、モデルにしているのは、現実世界そのものではなく、あくまで「戯曲家・演出家が構築した架空の世界」です。より厳密に言うと「戯曲家・演出家はこういう世界を構築しようとしているに違いない、と私が解釈した世界を....などと、突っ込み始めるときりがないのでこの話題はこの辺でやめておきましょう...

さて、演劇の照明は、役者の演技や表情が見えるということが最低限の条件であることは言うまでもありませんが、それを妨げない範囲で、照明を使ってほんのちょっと、ささやかに「遊び」を入れることがあります。

前述した「冒険王」の公演で、下手にほんの小さな窓明かりのようなものをつけてみました。これは純粋に装飾としての照明で、「遊び」的要素の強いものでした。また、青年団ではごく希ですが、照明による装飾を前提とした舞台装置が仕込まれることがあります。95年の「南へ」で劇場上部に吊られた白い帆(我々は「セイル」と呼んでいました)などが代表的な例です。その時使用したセイルは木製の骨組みに、透光性のある純白の布が凧のように張られたもので、純白をそのまま見せる必然はなく、照明で色などの装飾を施すことが了解されていました。あの時は表面(下面)からブルー(番号で言うと#73、#78、#67)で色をつけ、裏面から白い光をあてました。

こういった装飾的な照明は、演目によってその都度考えるものですので、プランをする上での一般的な法則などはありません。ただ自分が見て美しいと思えるようなものを目指すだけです。装飾的な照明を考察することは照明プランの最も楽しい部分の一つです。とは言っても、演出家に美しいと評価されないものは躊躇なく取りやめにしなければならないことは言うまでもありません。



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