人類が、何かをやめるということ

人類は、社会の様々な制度を作り出し、そしてそれを続け、あるいは、やめている。続いている社会制度の代表例は、「貨幣」。この地球上に、人間が現れるまでは、貨幣というものは存在していなかった。貨幣は、人間だけが作り、使っている物である。その価値も、人間だけに共有されている。だから、その方面の勉強をした人は知っているように、「貨幣価値」というのは、宗教と同じで、実体のない、人類だけの「共同幻想」である。

貨幣のように、ずっと生き続けている幻想もあるけど、歴史上、「それは間違いだったね」と否定された社会制度もある。一番わかりやすいのは「奴隷制」。奴隷制は、今はそんなの「信じらんない」制度だけど、昔のある地域では、「それが当たり前だった」。でも、その制度の末期では、かなり「ひどい矛盾」をみんな感じるようになって、奴隷制の是非をめぐって殺し合い(戦争)になったりもした。そういう、つらい経験を経て、人類は奴隷制から解放されることができた。

奴隷制を廃止する、その時にはきっと、「今の普段の生活って奴隷がいることが前提じゃん。奴隷いなくて、じゃああんたは生活できんの?」みたいな話が、たぶんあったと思う。

あるいは「貨幣」について、仮に貨幣を無くさなきゃいけないみたいなことを言う人が現れたとして(現れないけど)、そうしたら、「今の普段の生活で、貨幣があることが前提じゃん。貨幣が無くなったら、じゃあ今の社会は成り立つの?」みたいな話に、きっとなる。

奴隷制も、貨幣制度も、人間が作った物。人間以外の生物には、まったく必要のない仕組み。で、かたや「奴隷制」は、人間はそれを捨て去ることができた。捨てるその時には、ちょっとモメたかも知れないけど、結局、捨てることに成功した。一方、「貨幣制度」は、とてもじゃないけど捨てられそうにない。っていうか、捨てる理由がない。だから、今も捨ててないし、これからもたぶん、捨てない。

さて、じゃあ「原子力発電」はどうなのか? 「今の普段の生活って、原子力発電があることが前提じゃん。原子力発電なしで、じゃああんたは生活できんの?」っていうのが、原発の是非を問う時の、原発推進派の文体である。

たしかに、原発をやめるっていうのは、色んな意味で、「よっぽどのこと」であるとは思う。

でも、「奴隷制でさえ」やめられたんだから、今の人類の英知をもってすれば、原子力発電の問題点にみんなでちゃんと向き合って、「今の普段の生活で」とかいう卑近な例えにとらわれず、ちゃんと人類のために正しい選択をすることが、僕たちにはできると信じたい。

原発が、人類にとって正しい選択なのか、間違った選択なのか、僕にはわからない。僕は、この「地震国日本」では原発は稼働するべきではない、という確信はある。でも、フランスでの原発の是非、とかは、ちょっとわからない。まあきっと、仮に今のフランスで奴隷制が存続されてたとしても、僕はたぶん、それに対して何も言えないように思うんだけど。


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僕が原子力発電に反対するようになった理由

東日本大震災のために、福島第一原子力発電所が大変なことになっている。

この震災の前の時点で、僕が持っていた原子力発電の知識は、下記のようなものである(一部誤りを含む)。

1.原子力発電の原理は基本的に火力発電と同じ。水を沸騰させてその高圧蒸気でタービンを回す。

2.核分裂反応は、核燃料が量的に集まるほど激しくなる。核燃料が集まると、核反応によって飛び出す中性子が再び別の核燃料にぶつかって核反応を起こす、というサイクルができるため(連鎖反応)。なので、原発では、棒状の核燃料を複数平行して配置し、それらの間に「遮蔽物」を差し込むことで、核反応を制御している。この遮蔽物を「制御棒」という。

3.燃料に直接触れる水を「一次冷却水」と言い、暖められた一次冷却水を使って「二次冷却水」を沸騰させ、その蒸気でタービンを回す。一次冷却水は高濃度の放射能汚染水だが、二次冷却水には放射能汚染はほとんど無い。

4.万が一冷却系統にトラブルが発生し、燃料を冷やすことができなくなると、燃料が自分自身の熱で溶け(メルトダウン)、その結果、ある一定以上の溶解した核物質が集まってしまうと、核反応を制御できなくなり、核爆発が起こる。チェルノブイリではこれが起きた。

5.使用済みの核燃料も放射能を発しているので、それを止めるための「処理」が必要で、そのために「使用済み核燃料処理施設」がある。

だいたい以上のような理解であった。これでも、一般人としてはかなり理解していたほうだと思うが、実際はもっともっと様々なことがあるということを、あとから知るわけである。しかし、上記のような知識だけを持っていた震災以前の僕は、原発も「それほど危険な物ではない」と考えていた。しかし、震災後にその考えは改められることになる。

今回の震災後に、報道されたり自分で調べたりして新たに知ったのは、以下のようなことである。

6.チェルノブイリでは原子炉が爆発したが、それは「核爆発」とは言わず、「核暴走」という。「核暴走」は「ゆっくりとした核爆発」とたとえられる。

7.原発には「一次冷却水」「二次冷却水」と分かれていない、「沸騰水型」というものがあり、このタイプは核燃料に触れた高濃度の汚染水をそのままタービン駆動に使う。福島第一原発はこの「沸騰水型」である。

8.原発は、発電所でありながら、外部からの電源供給が必須である。冷却水の循環に電気が使われており、その電源に外部電源が使われているためである。停電すると冷却水の循環が止まり、燃料に触れている部分の水が沸騰、蒸発して燃料が過熱してしまう。それを避けるため、原発には自家発電設備が備えられている。

9.核燃料は、制御棒で核反応を止められたあとも、引き続き膨大な熱を出し続ける。これを「崩壊熱」という。したがって、運転を止めた原子炉であっても、冷却水の循環はかなり長い期間続けなければならない。

10.使用済みの大量の核燃料が、原発の敷地内に貯蔵されており、それらも何年ものあいだ熱を出し続けるので、循環する冷却水によって冷やされ続けなければならない。使用済み燃料であっても、仮に冷却水が無くなってしまうと、そこから放射性物質が漏れ出し、過熱すれば自身の熱で溶けてしまうほどの高温になり得る。

11.十分に冷えた使用済み核燃料であっても、放射性物質であることに変わりないので、廃棄することはできず、遮蔽された施設に永久に貯蔵しなければならない。


これらのことを、僕は震災前まで知らなかった。この中で僕が一番驚いたのは8である。原発は、停電すると大変な事態になるなんて、まったく知らなかった。今回の福島第一原発においては、大きな地震によって停電し、さらに津波によって自家発電装置が使えなくなったことが、大きなトラブルとなった主因である。

また9~11にも驚いた。核燃料は、使い終わっても「放っておいてはダメ」で、ずーっと「ケア」をし続けなければならないシロモノなのだなんで、そんなことも知らなかった。

ここまで知れば、原発がいかに危険で、環境破壊的なものであるかは、「常識的に理解できる」。

確かに、「発電」の行程だけを見れば、核反応の熱で水を温めるのだから、二酸化炭素は出ない。しかし、そんなのは原発全体から見れば、ごくごく小さなことで、発電以外の冷却水循環や燃料状態監視などは、すべて外部電源が無いとまったく動かない始末。また、電源が無くなれば、たとえ制御棒によって核反応が完全に止まっていても、冷却水はどんどん蒸発し、燃料はどんどん過熱し、放射性物質がどんどん出てきてしまう。敷地内に保管されている使用済み核燃料も、炉心の使用中の燃料と基本的には同じで、電源が無くなれば冷却水はどんどん蒸発し、どんどん過熱し、放射性物質がどんどん出てきてしまう。これはどう考えても危険である。少なくとも、こんなに災害の多いこの国では、あまりに危険すぎること間違いない。その上、原発は「核廃棄物」という、恐ろしく面倒なものを作り出してしまう。「核廃棄物」は増え続け、決して減ることはなく、永久に貯蔵しなければならない。これはいくらなんでも「割に合わない」というものである。原子力発電は、短期的にはメリットもあるのかも知れないが、長期的に考えればどう見てもデメリットだらけである。

「原発はそれほど危険な物ではない」と考えていた僕が、震災後、完全に脱原発の考えに至った経緯は、以上の通りである。


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