五部作、それぞれの暗転

ソウル市民五部作の上演が続いています。
上演日程もそろそろ半ばとなり、作品の内容に多少触れることをこういう場に書いても良い時期になって来たかと思いますので、今日は照明の解説を書いてみたいと思います。

今日は、5作品それぞれの、「ラストの暗転」について解説してみます。

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ソウル市民
「ソウル市民」のラストは、篠崎家の家族達が、自分たちの家族写真を見ているシーンである。最後は、父「これ、健一は普段ヘラヘラしてるくせに、写真撮るときだけは悲しそうな顔すんのな」母「ほんとだ」娘「やぁねぇ」父「バカだな、」というやりとりで終わる(手元に台本が無いので少し違うかも)。この最後のやりとりが終わった瞬間にフェードアウトスタート、約15秒という遅めのフェードでゆっくりと消える。その際、舞台の外縁部が先に消え、中央付近に光が絞られつつ消えていく。写真のことが話題にされることで観客の脳裏には何となく家族写真のイメージが浮かびやすい。その浮かんだ情景と舞台上の家族の情景がダブりながら消えていく、そんなイメージのフェードアウトである。5作品の中では最もオーソドックスな終わり方と言える。

ソウル市民1919
「ソウル市民1919」のラストは、篠崎家の家族、女中、関係者が「東京節」の替え歌(もともと東京が歌われているものを京城に置き換えた歌)を歌いながら終わっていく。歌の最後のサビ「すし キムチ 牛 天ぷら なんだとこん畜生で 憲兵さん スリに乞食にカッパライ ※ラメチャンタラ ギッチョンチョンでパイノパイノパイ パリコト パナナで フライ フライ フライ (※くりかえし)」が、時間を計測するとピッタリ30秒なので、この30秒間をかけてフェードアウトする。「ソウル市民」では舞台中央部に光を絞りつつ消していたが、「1919」は特にそういうのはない、リニアなフェードアウトである。サビの「すし キムチ」の最初の「すし」の「し」の音がキューになっており、そこでGOボタンが押されると、消え切るまでの30秒のフェードアウトはプログラムによる自動実行である。したがって、仮に歌のテンポが誤って速すぎたり遅すぎたりすると、歌が終わる前に暗転してしまったり、歌い終わったのに照明がダラダラと残ってしまったりすることになる(現実にはそういうケースは無い)。

ソウル市民・昭和望郷編
「ソウル市民・昭和望郷編」のラストは、篠崎家の兄妹達がいる中、慎一が南方の島々の名前を「サイパン、パラオ、ヤップ、ポナベ、ヤルート、トラック、マーシャル」とつぶやくなか、照明が消えていく。この照明フェードアウトは、ちょっと変わっている。「昭和望郷編」の舞台では、舞台上空のブラインド状の吊りものセットが、青、緑、赤の三色の光のタッチで装飾されているのだが、このセットタッチの光が最後まで残るような消し方をしているのである。最後の台詞の中の「ポナベ」のあたりからフェードアウトを開始し、全体はほぼリニアに光量が落ちていくのだが、最後、セットにあたっている三色の内の赤だけがわずかに残って暗転していく。終演時、ほとんどの観客の視線は、台詞を発している慎一に向けられていると考えられるが、最後の暗転の瞬間にわずかにセットタッチを残すことにより、観客の視線がわずかに「宙に泳ぐ」。そうすることで、観客のイメージがフッと広がり、この後に戦争に突入していく時代の大きな濁流を想起させるような効果を狙っている。

ソウル市民1939・恋愛二重奏
「ソウル市民1939・恋愛二重奏」のラストは、篠崎昭夫と寿美子の夫婦、二人の静かな会話である。この夫婦は、戯曲の前半では、夫婦の関係がややうまく行っていないかのような設定で始まる。そして劇中では大勢の人が入れ替わり立ち替わり出入りし、激しい歌や演説が賑やかに展開したあと、全体が収束するこのラストシーンでは、夫婦の距離が最初よりもわずかながら縮まったような、少し希望が見えるような会話が交わされる。そして最後に昭夫が「すき焼きは、篠崎家のが一番うまいよ」と、いかにも家庭的な台詞をつぶやき、寿美子が「そうですか」と応じる。その6秒後、舞台は突然カットアウトで暗転する。このカットアウトは僕の案だが、主にイメージしたのは「原爆」である。この劇(1939年を設定)の後に開戦となる太平洋戦争、その始まりである真珠湾攻撃、そして終盤で使用される原爆、それらの「戦争による破壊」のイメージから生まれたのが、このカットアウトである。しかし、実際にはすべてをいきなりカットアウトしているわけではない。寿美子の「そうですか」の後の6秒間、上空のセットタッチ、舞台の外縁部の明かりなどが急速にフェードアウトし、その直後に、残りの舞台主要部分がカットアウトするのである。観客の視線はおおむね舞台中央に集中しているはずだから、周縁部のフェードアウトは、網膜の視野には入っているものの、意識的には見えていないと思う。しかし、視野の周縁部の光を先に急速にフェードアウトさせることで、観ている者に無意識レベルでの「予感」を持たせ、その予感が持ち上がった瞬間に全体をブラックアウトさせる。そうすることでカットアウトの切れ味を鋭くし、同時に、「事故感(トラブルで照明が消えてしまったような感じ)」が生じるのを防ぐことを狙っている。

サンパウロ市民
「サンパウロ市民」のラストは、「ソウル市民」と似ていて、食卓を囲む寺崎家の会話であり、最後の台詞も「ソウル市民」と同じ、父「バカだな、」である。しかし、「サンパウロ市民」のラストシーンは、「ソウル市民」のラストでビジュアル的に重要アイテムであった「写真」が無い。会話の内容は、息子の二郎(なぜかこの場にいない)は何を見ても泣く、という話で、あまりビジュアル的な広がりも無い。そればかりか、話題に出てくる「土人の王様の奴隷(家来?)」の真似をする動きを高嶋がしており、仮に「ソウル市民」と同じ消し方をしてしまうと、動きのある高嶋に観客の視線が引っ張られてしまう。だから、実はこれ、「いったいどうやって終わったものか」、僕としては「よくわからなかった」のである。そこで、思案の末に、「ソウル市民」のように最後の台詞からフェードアウトをスタートするのではなく、逆に会話が続いている途中から盗んでフェードアウトを開始し、最後の台詞の直後に消えきるような暗転をすることにした。ここでも、「ソウル市民」ほどではないが、外縁部がやや先行して消え、本舞台部分が少し残りつつ暗転するようなフェードアウトになっている。

以上、五部作の最後の暗転は、(別にそうしようと最初から狙ったわけではないが結果的に)すべて異なる消し方となった。


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