正月に「ニッポンのジレンマ」という番組を見て、なんだかとても暗い気分になり、数十分だけ見てすぐ消してしまった。だって三十も過ぎたいい大人達が、今の日本社会の「何が悪くて、それは誰の責任か」ということを、延々と言い合う番組だったからである。その責任の中に、自分たち自身は決して含まれていない。この理路が、僕にはまったくわからなかった。
壮年層はもちろん、老人も子供も、その社会の「構成員」である。構成員であるからには、その社会の構造の一部である。だから、社会構造が「今のよう」になっている責任は、全世代にある。もちろん、全ての世代が同じ重さの責任を負っているわけではない。たとえば、生まれたばかりの赤ん坊には、今の社会構造がこのようになっている責任は、無い。しかし、社会に対する責任は、生まれた瞬間に発生し、成長とともにそれは次第に大きくなっていく。
人間は、自分が成長するのに応じて、自分の住む社会の構造に対して、だんだんと責任感を増していく。それが自然な姿である。しかし、「ニッポンのジレンマ」で口角泡して激論(というよりあれは愚痴の言い合いだ)をしていた三十代の連中は、この社会がこのようになっているのは「自分より上の世代の責任だ」と言い続け、この社会を自分たちで良くしていこうという気概が、ほぼゼロである。「上の世代のせいでこんなんなったのを、なんで俺たちが尻ぬぐいしなくちゃいけないんだよ」とでも言いたげである。
しかし、そういう「上の世代のせいにする」という発想は、(少なくとも僕らの感覚では)子供の発想である。僕ら自身がそういう物言いをしていたのは、だいたい高校生ぐらい、せいぜい大学生ぐらいまでだったと思う。
だいたい、「社会保障の分配の不公平」なんてものを、問題にすること自体が、なんて「小さい」んだろうって思う。まだまだ働ける年齢のうちから、将来の年金とかの心配をしていること自体に、「頼りなさ」を感じてしまう。
年をとって、働けなくなったら、誰かの世話にならなければならない。それは当たり前の話である。「今のままだったら自分たちは年金を受け取れない」とか言ってるが、世代間の交流が正常に行なわれ続ければ、君らが年を取ったときに、若い人たちがちゃんと世話をしてくれるはずである。しかし、三十代の君たちは今、年寄りの世代の世話をするという義務を捨てようとしていて、世代間でぶった切っておのおのでやれば良い、などという乱暴なことを言い始めている。君たちがそういうことを言うことによって、君たち自身の手で「年金を受け取れない」社会を作り出しているということに、なぜ気づかないのか。
もちろん、君らの言うことの中で、理解できることも多少はある。年金負担が不平等だという、それは確かにその通りなのだろう。しかし、数字的な不平等を計算して算出するのと、そこから「年寄りの年金を若い者が負担するのはおかしい」という帰結に飛躍するのでは、まったく意味が違う。
とにかく最近の日本人は、話を単純化しようとする傾向がものすごく強くなってしまった、と思う。何でもかんでもオール・オア・ナッシングで考えようとする。じっくりと考える「思考の忍耐力」が、すっかり失われてしまった。全てを金銭価値で考えるようになってしまったせいだろう。「貨幣」という宗教が、異常に浸透しすぎている、と言っても良いかもしれない。世の中の全てのものは金銭で購入できると考え、また、金銭に換算できないものは価値がないと考える、そんな今の日本人。
今、たまたま韓国に来ているからか、特にそう感じている。もうこんな住みにくい日本からは逃げ出して、韓国で暮らそうか、とすら思う。まあ実際的には冗談だが、気持ち的には本気でそう考えそうである。もし僕が国外に移住したら、日本から見ると、僕という人間の才能と能力が、国外に「流出」することになり、大きな言い方をすれば「国益を損なう」ことになる。
つまり、自分達の世代の不平ばっかりを言い重ねる「ニッポンのジレンマ」の連中の発言は、その発言自体が、国益を損なう行為なのである。もっとも、あの連中にすれば「国益なんて関係ねえ」ってことなのかも知れないが。
人間は子供から大人になり、やがて老いて、死ぬ。その間、その役割は順々に交代していく。誰かが誰かを「食わしていく」、誰かが誰かに「食わせてもらう」。この連環が続いているからこそ、社会システムは保持される。その環を切って、「自分達は自分達だけでどうにかする」という考え方になったら、社会システムは崩壊してしまう。自分が年とって働けなくなってから、システムを崩壊させたことを後悔しても、もう遅いよ。
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