大飯原発が再稼働しそうである。
僕はテレビもほとんど見ないし新聞も読まないので、ニュースはもっぱらネットだけが情報源だが、どうも様子をうかがうと、国民の多くが再稼働を望んでいないのに、野田総理、橋下大阪市長、時岡おおい町長などの政治家が中心となって、再稼働を進めているらしい。
福島第一原発は、国土の一部が失われたと言っても過言ではない、大変に大きな事故を起こした。これから何十年も、場合によっては百年単位で、汚染を取り除いていかなければならない。そのコストを考えたら、原発は、金銭ベースだけで見ても、まったく割りに合わない方法である。そんなものは、今すぐやめるべきだと考える、僕もその一人である。
しかし、おおい町長が再稼働を求めるのは、まだ少しわかる気がする。原発の発電事業は、きっと莫大な雇用と税収を、おおい町にもたらして来たに違いない。小さな町にとって、この巨大産業がいきなり消滅するのは、短い視野で考える限り、大きな損失になるであろうことは、なんとなく理解できる。
おおい町のような原発の立地自治体が再稼働を望む理屈はある程度わかるが、原発から遠く離れた、野田総理や橋下市長らが、なぜ再稼働を進めようとしているのか。その理由は「電力不足」であると報じられている。しかしそれは「表向き」の理由である。実際は、みんなよく知っているように、電力はギリギリ足りているのである。原発再稼働を進める理由は「電力不足」などではない。本当の理由は別の所にある。
それを理解するためには、「原子力発電」は、とてつもなく金がかかるということを知る必要がある。原発の建設費用とか、今回の事故の被害額とか、廃炉にかかる費用とか、そういうのは全部、何百億とか何兆という単位の、僕たち凡人にはまったくリアリティを持てない金額である。皆さんは「札束」の現物を見たことがあるだろうか。百万円の札束は、厚みが約1センチである。一千万円は約10センチ、ちょうどレンガみたいな大きさになる。この「レンガ」を、縦10×横10の形に100個四角く並べると、だいたいタタミ1畳弱の大きさになる。それが10億円。そのタタミを10枚作ると10畳の広さになり、これが100億円。レンガの数としては1000個。その10畳のレンガを50段積むと、およそ5メートルの高さになり、5000億円。福島第一原発の建設費用は、それぐらいかかったそうである。福島第一だけでこの金額だから、日本全国の原発にかけられた費用は、少なくとも十兆の単位である。「脱原発」は、その莫大な投資の多くが無駄になるということを意味する。
今までの投資が無駄になるだけならまだしも、原発は、たとえ停止していても「維持費」がかかる。前にこのブログでも書いたが、原子力発電所というのは、停止したからといって放っておけるわけではなく、何年にもわたって燃料を冷却しながら管理しなければならない。現在、日本の原子炉は全て発電を止めているが、それでも莫大な維持費がかかっている。その額は、一日あたり数億の単位である。原発が電気を作り出していれば、当座の(=短期的な)採算は合うのかも知れないが、発電をしない原発は、莫大な金を、ただ食いつぶすだけの施設である。その維持費用をどうするのか。原発を無くすには、最終的には「廃炉」にしなければならないが、その廃炉にも莫大な費用がかかる。その費用を、誰が負担するのか。
現在も、これからも、電気を生み出さない原子力発電所を維持、または廃炉にするために、たくさんの技術者が日々働いている。脱原発は簡単に「はい、原発ストップ。脱原発だん」というわけにはいかない。脱原発を完成させるためには、「維持」と「廃炉」という、遠い道のりを経なければならない。その過程で、原子力の専門技術者達は必要不可欠である。その人達を、脱原発が達成されるまで、誰が、どうやって食わせていくのか。技術者を食わせることができず、原子炉を放置すれば、燃料は暴れ出す。誰かが、原子炉を見張り続けなければならない。その見張りを続ける責任は、誰にあるか。僕は、これまで原子力の電気を使ってきた僕たち全員に、その責任があると思う。電力会社だけに全ての責任を押しつければ良いとは、僕は思わない。
しかし、そのような負担を「自分のこと」として、「自分達の責任」として受け入れる国民が、どれほどの割合いるだろうか。とてもじゃないが、国民の大多数を納得させることは無理であろう。だから、少しでも負担を減らすために、安全が確認された原発に発電をさせて、利益を出していくしか方法がない。おそらく、野田総理や橋本市長はそう考えているのだと思う。
皆さんはどう思うだろうか。原発の廃止は、「国民の意志」なのか。そうだと言うなら、国民全体が責任を持って、停止原発の「維持」「廃炉」を行なっていかなければ(その費用負担を受け入れなければ)ならない。
あるいは、今回の事故を含む、原発の問題は、すべて東京電力(を中心とした原子力ムラ)の責任なのか。そうだと言うなら、彼らが彼らの責任において「再稼働する」というのを制止する権利は、僕たちにはない。そうは思わないか。
僕は、「脱原発」を望む者の一人である。原発が今や電気という「商品」を作り出せなくなった以上、停止原発の「維持」「廃炉」の費用のために電気料金の値上げが必要だと計算されるなら、それはしかたないことだと、僕は思う。
(以上はあくまで僕の個人的な推測です。あながち的外れだとは思っていないし、僕自身はこれが正しいと信じていますが、この文章の記述を、何かの主張の証拠資料にしたりは、決してしないで下さい)。
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