原発事故の「被害者」は誰か?

先週、「観察映画」で知られる映画監督の想田和弘さんと、実業家の堀江貴文さん(ホリエモン)が、ツイッター上で「原発を存続すべきか廃止すべきか」の議論を展開した。僕はたまたまそのやりとりをリアルタイムで読んでいて、大変興味深い議論だと思ったので、togetterを使用して『まとめ:想田和弘さんと堀江貴文さんとのやりとり』という形にまとめてみたところ、非常に多くの方に読んでいただき、多くの方からたくさんのご意見・ご感想をいただいた。→ http://togetter.com/li/538858

この「まとめ」を作るにあたっては、出来るだけ恣意的にならないように、また、僕自身の考えが「まとめ」に現れないように注意した。もちろん、このブログの過去記事を見れば、僕がいわゆる「脱原発派」であることはすぐにわかるし、その気になって調べれば、実は想田監督と僕とは親交があるということも、誰でもわかることである。しかし、この「まとめ」を作る際には、出来るだけ、そういうこと(僕個人の意見)が表に現れないように注意した。なぜなら、僕がこの「まとめ」を作ろうと思った目的は、想田監督のように脱原発の正しさを主張することではなく、もちろん堀江さんのように原発維持の必要性を主張することでもなく、そのどちらの道を選ぶべきか、読む人に迷って欲しい、考えて欲しい、そう思ったからである。そういう読み方ができるような冷静な議論、結論を開いた形での議論を進められた想田さんと堀江さんのお二人には、深く敬意を表したいと思う。

そういったわけで、この「まとめ」を作る際には、僕自身は自分の意見が表に出ないようにしたわけだが、では僕自身の内心では、この想田さんと堀江さんの議論を見てどういう感想を持つのか。それを、そろそろ表明して良い時が来たと思い、この記事を書いている。

想田さんと堀江さんの議論を読んで、僕自身がどう思うかというと、お二人には失礼ながら、「僕が一番気になっている点については、まったく触れられていない」というのが、実は正直な感想である。

「まとめ」を注意深く読んだ方はお気づきだと思うが、この議論の中で、想田さんと堀江さんは、基本的に対立はしているものの、一部、いくつかの点で意見が一致しているところがある。例えば

・除染は経費がかかるわりに効果が低いので、除染よりも住民の移住や賠償を優先するべきである

・事故の際に国家が補償する現在の仕組みをあらため、再稼働にあたっては民間保険会社の加入を義務づけるべきである。

という2点を、両者の意見が一致しているポイントとしてあげることができると思う。

しかし、僕個人は、この二つの一致点の、どちらにも、違和感を感じてしまう。もちろん、いずれも間違いだとは思わない。二点ともその通りだと思うし、現実的にも良い提案だということに異論はない。しかし僕は、「もっと大事なことがあるだろう」と、どうしても思ってしまうのである。

ここであらためて問いたい。この原発事故の「被害者」は誰なのか。

世間やメディアでは、「加害者」が誰であるかという話はうるさいほどに聞く--東電、政府、原子力ムラなどなど。しかし、この事故の「一番の被害者」が誰であるかということを、人々は今一度、思い起こすべきではないかと、僕は思うのである。この事故における、一番の被害者は、もちろん、福島第一原発の近くに住む人たちである。だが、事故のあとに、やれ「節電」だ「計画停電」だと、原発から遠く離れた都市にも様々な影響があったため、原発の電気をこれまで大量消費してきた首都圏民をはじめ、広く、ほぼ日本全国民が、なんとなくこの原発事故に対して「被害者意識」を持つに至った。

もちろん、それが間違いだと言うつもりはない。放射能の汚染や風評により、日本の農産物・海産物は大きな打撃を受けているという。僕自身(神奈川県在住)も、事故直後は、電車が節電要請のために運転を取りやめて、仕事場に行くのに苦労するといった不便な目に実際にあったし、自分の職業(舞台照明)が電気を大量に使うという事実について深く悩んだりもした。また、この事故が引き金となって、日本全国の原発が停止し、その再稼働が「はばかられる」事態におちいっている。今回の地震・津波の直接の影響が無かった関西地域などは、「今まで問題無かったのに今回のことのせいで不本意に原発を止めさせられた」と感じる人も、おそらくいるに違いない。それもある意味、今回の事故の「被害」と言える。だから、必ずしも事故原発(福島)の近くに住んでいなくても、日本全国民が多かれ少なかれこの事故の「被害」を受けたということは、たしかに間違いないだろう。

だから今は、日本全国民がみんなでよってたかって、原発を「○○すべきだ」と言っている。原発事故から自分自身が受けた何らかの影響(被害)を根拠に、自分も原発に対して「もの申す権利」がある、と思っているからだと思う。

そして、悲しいことに、結局(またしても)、「カネの話」が中心になって来ている。いわく「原発を止めて火力に頼ると燃料費がうんぬん」、「原油価格は中東情勢に大きく影響を受けるので、それに依存しない原子力が必要うんぬん」。そういう、「カネの話」が増えてきたなぁと思ったら、それに対する脱原発の人たちも、一緒になって「カネの話」の土俵に乗ってくるではないか。いわく「廃炉費用のことまで考えたら原発のほうが高くつく」、「放射性廃棄物の処理費用まで算定すると原発は膨大な赤字」などなど。

ちょっと待って欲しい。大事なことを忘れていないか。「一番の被害者」のことを。

僕にも、福島県内に友人がいる。その人がいる場所は、避難区域に関わるほど原発の近くではないが、それでも原発事故のあとの、悲痛な言葉の数々が、強く印象に残っている。

「輸送路はあるのに輸送車両(救援物資)が全く来ない」
「職場を捨ててさっさと逃げる上司、パート従業員が全員避難するまで踏みとどまる店長」
「学校の授業が再開したが、子供達にとってどれくらい危険なのか説明が無い」
「被爆の限界量が引き上げられる。より地面に近い子供はますます被爆する」

それらの言葉は、どれも声は小さいけれど、身近で、切実で、悲痛なものに感じられた。

福島の、原発近くにいる人たちは、はたして、最初にあげた、二人の二つの一致意見、

・除染は経費がかかるし無駄だから移住費用と賠償負担を優先して欲しい
・国家が賠償する仕組みをあらため、民間の保険会社に加入することを義務づけて欲しい

といったことを、望むだろうか。

そう考えると、何か、ちょっと、「ずれている」と、僕は思ってしまうのである。

原発の近くにいる人の「精神的打撃」は、僕たちのそれとは、きっと比べものにならないほど大きいものだと思う。景色は何も変わらないのに、目に見えない「放射能」というものが原因で、住み慣れた土地から出なければならない無念。「避難する」者と「残る」者とで、人間関係が行き違っていく不条理。遊びたい盛りの子供達を屋内に閉じこめなければならない理不尽。その心理がどういうものか、それは僕の想像を超えている。

「今回の原発事故で直接の犠牲者はいない」などと言う人がいる。それは、統計的な分析としては正しいのかも知れない。しかし、原発事故のせいで、「心」に大きくて深い「傷」をうけた人たちがいる。それこそが、原発事故の最大の「被害」だと、僕は思う。

電力? 燃料費? 活断層? 景気回復? ちょっと待って欲しい。

飛行機だって、その設計が原因と考えられる事故が起きたら、とりあえずその機種の運行は全便をいったんストップして、徹底的な原因究明が行なわれる。いやもちろん、飛行機と原発を同じレベルで比べることはできない。でも、福島第一原発は、とんでもない大きな被害を出した。だったら、まずは、とりあえず、「どこに(あるいは誰に)問題があったか」を、きちんと時間をかけて調べることが、先決じゃないのか。少なくともある程度その調査の見通しが立つまでは、もうちょっと「おとなしく」してるのがスジじゃないのか? そういうのをすっ飛ばして、「待ったなし」とか「加速化」とか言うのは、話の筋目が違うんじゃないか?

こういうことを言うと、「それは感情論だ」という人がいる。ああ、その通りだ。これは感情論である。断言するが、本当は「経済」なんかより「感情」のほうがずっと大事だと、僕は思っている。それを僕は強調したい。だって、たしかに「経済的」に窮すれば人は生きられないけど、それ以前に、「感情的」に行き詰まれば、人はもっと「死」に近づいてしまうのだから。だからこそ、「感情」のことをもっと大事に考えるべきだということを、僕は強く言いたい。だから、一番の被害者、傷ついた人、悲しみに暮れている人に対して、心を配り、このような事態を招いたことを、皆で、じっくりと省(かえり)みるということを、僕たち全員が、まずするべきなんじゃないのか。この2年以上、僕たちは、一番大事な問題から、逃げてるんじゃないのか。

「再生可能エネルギー」とか、「核燃料サイクル」とか、「日本経済」とか、「風評被害」とか、そういう話も、もちろん不必要とは言わないが、それらは、本当に、「一番の被害者」の「心の傷」よりも、大事なことなんだろうか? 本当に、優先すべきことなんだろうか? 傷ついた人を救うために、経済的な犠牲も当然必要だということを、僕たちは忘れていないだろうか? 自分たちの利益のために、原発を「すぐ再稼働」だの「即時停止」だの主張する権利が、僕たちに、本当に、あるのか?

現在の「原発推進×脱原発」という大きな対立、その大きな議論のほとんどが、大事なものを「見て見ぬふり」をしながら行なわれているように、僕には思える。

深く傷ついている人たちがいる。さいわい傷つかなかった僕たちには、傷ついた人を「気遣う」、その義務があると思う。「一番の被害者」たちのことを考えていないような議論には、僕は参加する気になれない。

長々と書いたが、まだ、言いたいことをうまく言えた気がしない。
でもきっと、僕のこの気持ちをわかってれる人が、どこかにはいると、信じたい。


カテゴリー: 社会