まもなく『川と出会い』始まります

16日から春風舎に小屋入りして、

青年団若手自主企画 vol.49 ブライアリー企画
『川と出会い』


の照明を作っています。もうだいたい作り込みは済んで、今日がゲネ、明日が初日です。僕が自分で本番オペレートもします。

出演者が、経歴や性格や国籍がバラバラで、なかなか面白い現場です。

基本的にダンス公演ですが、テキスト(せりふ)も使ってるし、映像が流れたりもするので、ダンスを見慣れてない僕にも見やすいです。上演時間は現在の所、1時間15分ぐらいの見込み。

春風舎を、ちょっと変わった使い方をしています。舞台・客席を90度回した形で、横長に使っています。

照明は、春風舎にあるDF×20台、T-1×9台の、計29台だけで作りました。あ、T-1が1台余ったので28台ですね。少ない機材で頑張ったのは別に節電とは関係ありません。まあぶっちゃけ、外から機材を持ち込む予算が無いからですね。でも、春風舎で公演する時、他の人はわりとゴテゴテと持ち込む人が多いんですが、本当はそんな持ち込む必要は無いんじゃね? っていう、僕からの問題提起というか、挑戦というか、「持ち込まなくてもここまで出来る」っていう僕自身のプレゼンというか、そんな意味もあっての「持ち込み無し」です。

青年団若手自主企画 vol.49 ブライアリー企画
『川と出会い』
於:アトリエ春風舎(東京メトロ有楽町線/副都心線「小竹向原」駅より歩3分)
4月20日(水)~23日(土)
20と21日=19:30のみ、22日と23日=15:00と19:30
予約¥1,800、当日¥2,000

チケットまだまだあります。すいてます。お気軽にご来場下さい。
照明卓(最後列の一番端)の所にいるのが僕ですので、ご来場の際は是非お声がけ下さい。


カテゴリー: 日記・近況


放射性物質の拡散予測が出てこない理由(推測)

僕はテレビも見ないし新聞も読まないので、世間様の雰囲気はあまり知らないんですが、ネットニュース等を見ていると、「放射性物質の拡散予測がなぜ公式に発表されないのか」という疑問が、だいぶ高まっているようですね。

僕は、この疑問には、ある程度答えられます。もっとも、ネットでこういう不確実な情報は出さないようにという通達もあったと聞きますので、僕がここにこういうことを書くと、僕が利用しているプロバイダに迷惑がかかっちゃうのかも知れませんが。まあでも、僕が以下に書いている内容は、報道などで公開されている情報に基づいて、僕の「理系の頭」で論理的に推論したものですので、デマとかとは違います。僕なりの「推測」です。信じるかどうかは読んだ人の自由です。たぶんそれほど間違ってはいない、という自負はあります。

さて、本題です。

放射性物質の拡散予測を、いまだ、なぜ出せないか。それは、結論から言うと、「わからないから」です。「どこまで公開して良いか意見が分かれてる」とか「パニックを恐れて隠してる」とか、色々と適当なこと言う人がいるようですが、それらはみんな、たぶん違います。本当のところは「わからない」んだと思います。なぜ「わからない」かというと、「まだ火消しの真っ最中」だからです。

たとえば火事で数軒の家が燃えている状況だとして、その消火作業が続いているときに、その消火作業をしてる人に「この火事はどこまで拡がることが予想されますか」なんていう質問は、ちょっと聞きづらいですよね。それでも、仮に頑張って正確に答えようとすれば、「現在の消火作業がうまく行けば、これ以上には火は拡がらない。しかし、消火作業が成功しなければ、どこまで燃え拡がるかわからない」というような答えになるでしょう。

火事にたとえるのはちょっと乱暴かも知れませんが、今の福島原発も、だいたいそんな感じだと思います。福島原発の核燃料は、まだ「火事」の状態で、「収まるのか」「どこまで拡がるのか」という質問には答えられない状況が続いていると思われます。

原子炉(1、2、3号炉)の中心にある核燃料は、現在も非常に高温で、中心部はおそらく二千数百度、溶けて液体になっています。その周囲を、固体を保った燃料が包み、そこに水がかけ続けられている、という状態だと思われます。

で、今は、核燃料に「水をかけている」状態で、上部は空気中に出ているわけです。だから温度が下がらない。これをまず、上部まで完全に「水没した」状態にして、さらに、その水を循環させて、つねに「流水の中にある」状態になって、初めて、一応は安心な状態、すなわち「冷温停止」になるわけです。

外から水をかけ続けるんじゃダメなんです。かけた水は放射能で汚染されますから、捨てられない。だから汚染排水がどんどん増えて貯まっちゃうか、あるいは、蒸発して大気に拡がっちゃう。だからそうじゃなくて、汚染された水を外に出さず、ぐるぐる循環させる必要がある。核燃料に触れて熱せられた水を、パイプで外に引き出して、海水の中を通して冷やす。冷やされた汚染水を原子炉に戻して、また燃料を冷やす。そういう「汚染水の循環」が確保されて、初めて「冷温停止」と言える状態になる。いや、僕も専門家じゃないから知りませんけど、公開されている情報からきちんと推論すると、そういうことなんだと思います。

原子炉が「汚染水の循環」を確保するまでには、まだ何ヶ月もかかると予想されています。その間に起こり得る、「最悪の事態」としては、まず、核燃料を内側で密閉している構造(原子炉圧力容器)が、溶けた燃料の高熱で破れて密閉が保たれなくなる。さらに、それを囲む外側の密閉構造(原子炉格納容器)に水素ガスが充満し、それが爆発(水素爆発)して、放射性物質が一気に周囲に飛散するという状況、これが想定される一番「最悪の事態」で、万が一そうなったら、ほぼ「チェルノブイリ」です。チェルノブイリでヨーロッパ全体の汚染が問題になったように、今度は東アジア全体の汚染が問題にされる。「消火活動」がうまくいかないと、最悪、そういうことは起こる、それが「完全には否定できるとは言えない」というのが、今の状況、だと思います。

いっぽう、現在行なっている作戦が最もうまく進行した場合は、「今が最悪の状態」で、これからは良くなるいっぽうである、それも十分考えられます。原子炉圧力容器も、格納容器も無事なまま、水の供給・循環が確保されて、最終的に1~3号機のすべてで冷温停止に成功する。格納容器が傷ついている2号機(そのため今は汚染された水が漏れ続けている)についても、その修復ができ、汚染水の流出も止まる。そのように、「すべてが成功する」という可能性も、時間はかかるでしょうが、十分高いと思います。

さて、じゃあ今は、どういう想定をするべきでしょうか。最悪の事態を想定して、原子炉自体が水素爆発で破壊され、内部の放射能が飛散して、東アジアが汚染された場合の「最悪の事態を想定した放射性物質の拡散予測」を、政府は今すぐ出すべきでしょうか。僕はそれはちょっと、どうかと思います。政府発表は、やはり、「確実な予想」にとどめ、「最悪のシナリオに基づく」予測は、いたずらに出すべきではないと思います。「公式」な発表としては。しかし、政府からは自由な立場にある、民間や機関の研究者とかが、「最悪の場合」という但し書きをきちんとつけて、そういう予想を出すのは、当然「あり」だと思います。

でも今回は、そういうのも「なし」、現時点で「はっきりしている」情報だけを、皆さん出すように、と、いう通達が出たようですね。それが、今の政府の方針、ということなんでしょう。そんなことするから、誰も、何も、信じられなくなっちゃったわけです。

みなさん、僕の話も、あんまり簡単に信じちゃダメですよ。

(以上は、原子力はまったく専門外の僕が、まったく個人的に推測したものですので、この文章の記述を、何かの主張の証拠資料にしたりは、決してしないで下さい)


カテゴリー: 社会


人類が、何かをやめるということ

人類は、社会の様々な制度を作り出し、そしてそれを続け、あるいは、やめている。続いている社会制度の代表例は、「貨幣」。この地球上に、人間が現れるまでは、貨幣というものは存在していなかった。貨幣は、人間だけが作り、使っている物である。その価値も、人間だけに共有されている。だから、その方面の勉強をした人は知っているように、「貨幣価値」というのは、宗教と同じで、実体のない、人類だけの「共同幻想」である。

貨幣のように、ずっと生き続けている幻想もあるけど、歴史上、「それは間違いだったね」と否定された社会制度もある。一番わかりやすいのは「奴隷制」。奴隷制は、今はそんなの「信じらんない」制度だけど、昔のある地域では、「それが当たり前だった」。でも、その制度の末期では、かなり「ひどい矛盾」をみんな感じるようになって、奴隷制の是非をめぐって殺し合い(戦争)になったりもした。そういう、つらい経験を経て、人類は奴隷制から解放されることができた。

奴隷制を廃止する、その時にはきっと、「今の普段の生活って奴隷がいることが前提じゃん。奴隷いなくて、じゃああんたは生活できんの?」みたいな話が、たぶんあったと思う。

あるいは「貨幣」について、仮に貨幣を無くさなきゃいけないみたいなことを言う人が現れたとして(現れないけど)、そうしたら、「今の普段の生活で、貨幣があることが前提じゃん。貨幣が無くなったら、じゃあ今の社会は成り立つの?」みたいな話に、きっとなる。

奴隷制も、貨幣制度も、人間が作った物。人間以外の生物には、まったく必要のない仕組み。で、かたや「奴隷制」は、人間はそれを捨て去ることができた。捨てるその時には、ちょっとモメたかも知れないけど、結局、捨てることに成功した。一方、「貨幣制度」は、とてもじゃないけど捨てられそうにない。っていうか、捨てる理由がない。だから、今も捨ててないし、これからもたぶん、捨てない。

さて、じゃあ「原子力発電」はどうなのか? 「今の普段の生活って、原子力発電があることが前提じゃん。原子力発電なしで、じゃああんたは生活できんの?」っていうのが、原発の是非を問う時の、原発推進派の文体である。

たしかに、原発をやめるっていうのは、色んな意味で、「よっぽどのこと」であるとは思う。

でも、「奴隷制でさえ」やめられたんだから、今の人類の英知をもってすれば、原子力発電の問題点にみんなでちゃんと向き合って、「今の普段の生活で」とかいう卑近な例えにとらわれず、ちゃんと人類のために正しい選択をすることが、僕たちにはできると信じたい。

原発が、人類にとって正しい選択なのか、間違った選択なのか、僕にはわからない。僕は、この「地震国日本」では原発は稼働するべきではない、という確信はある。でも、フランスでの原発の是非、とかは、ちょっとわからない。まあきっと、仮に今のフランスで奴隷制が存続されてたとしても、僕はたぶん、それに対して何も言えないように思うんだけど。


カテゴリー: 社会


Perfume「エレクトロ・ワールド」の照明について

なんだか、ブログ開設早々、原発の話ばっかりで、雰囲気が暗くなってしまったので、違う話題を書こうと思います。

僕は、芸能やスポーツにはまったく「うとい」のですが、Perfumeだけは、諸般の事情があって、実はわりと詳しいのです。CDやDVDもかなり所持しています。今回は、ツイッターで以前「エレワの照明」と題して連続ツイートした、Perfumeのライブの照明の解説を、再構成してアップしてみようと思います。

以下、主に、Perfumeの「GAMEツアーDVD」および「武道館ライブDVD」の中に含まれる曲、「エレクトロ・ワールド」の照明について解説しています。DVDをお持ちでない方は、YouTubeとかで「エレクトロ・ワールド」とかで検索していただくと、DVDに収録されているものに近い動画を閲覧出来るかもしれません。いずれにしてもこの文は、「エレクトロ・ワールド」の映像を見ながら読んでいただくことが前提の内容になっていますので、どうかその点、ご承知おき下さい。

さて、収録されたライブの「照明」を見ようとする時に、はたして何を見れば良いのか。光源(ライト)が画面に映り込んでいるものは、まあ見ればわかります。しかし、映像から照明を分析する際のキモは、光源が映り込んでいなくて、到達している光だけを見て、光源の位置などを類推することにあります。

GAMEツアーDVDの「エレクトロ・ワールド」を、照明に注意しながら細かく見てみましょう。

1コーラス目の歌い出しのところ、「この道を走り〜最後で最後最後だ」は、Perfumeにどこから光があたっているか、わかりますか? なお、ライブの照明は会場によって違うので、あくまで「GAMEツアーのDVD」で見て下さいね。

歌い出しは、のっちが右(舞台用語で言う上手=かみて)を向いているアップです。そこで、マイクを持った手の影が顔に出ているのがわかります。影は光源と逆方向に出るので、ということは、上手のほぼ真横に光源がある、ということがわかります。「振り返るとそこに~」のあたりで正面を向いた時には、たしかに顔の上手半分が明るく見えています。

またその部分をよく見ると、上半身=顔や腕に比べ、脚はずいぶん暗く落ちていることがわかります。つまり、上手の真横からの光は、Perfumeの上半身だけを狙ってあてられているのです。これにより、宙に浮いているような幻想的な雰囲気を出しているんですね。

もちろん、ここでの照明は上手の真横だけではありません。他にも、後や上からの青い光、その他様々な光が合成されて美しいシーンを構成しています。ただ、あまり細かいところまで画面で見分けるのは無理なので、この場ではわかりやすい光のみに注目していくことにしましょう。

数多く点灯している照明の中で、最も見分けやすいのは「ピンスポット」(略して「ピン」という)だと思います。ピンスポットは、キャストの正面から丸くあてて人が操作して追っかけて動くライトです。舞台照明を誇張して表現するときによく例にされるやつですね。このPerfumeのライブでも、ピンスポットは使われています。ではこの「エレクトロ・ワールド」ではどうかというと、最初の歌い出しの部分ではまだピンは消えています。

ところで、ピンスポットは、その丸い光の形が印象的ですが、その目的は丸い光の形ではなく、とにかく「明るい」光を得ることです。ピンスポットはほとんどの場合、その会場で「最も明るい」照明機材です。この「エレクトロ・ワールド」では、歌詞の「エレクトロ・ワールド」の「ワー」の音と同時にピンスポットが見事にカットインしています。

ピンスポットの光はとても強いので、これがあたると顔がパッと明るくなります。DVDの映像ではカメラアングルも同時に切り替わっているので気づきにくいかもしれませんが、「エレクトロ」から「ワールド」への瞬間に、三人の顔が、パッと明るくなっています。これが「ピン」の光です。

ピンスポットは光に色をつけることもできます。具体的には、ピンスポットの操作者が、カラーフィルターを手に持って、ライトの前にかざすのです。この「エレクトロ・ワールド」で言うと、歌詞の「落ちる僕の手にひらりと」の次の間奏でピンスポットの光が赤くなっています。そして次の「本当のことに」の歌でまたナマのピンになっています。わかるでしょうか。

そのあと2回ある「ああ あああ~oh yeh エレクトロ・ワールド」の部分もピンスポットが赤い光になっています。続く「見えるものの~たしかにいるよ」の所は、映像ではちょっと色の判別が難しいですが、おそらくピンは薄い紫で照らしてるんじゃないかと思います。

次の「この道を走り進み進み」から「最後最後だ エレクトロ・」まで黄色、次の「ワールド」で、また白(ナマ)のピンになっています。ピンはたぶん3台(Perfume一人に一本)で、計3人の操作者でやってると思うのですが、タイミングが実に見事に合っていますね。

「僕の手にひらりと…」のリフレインでピンは再び黄色になり「もうすぐ 消える」まで黄色、いや厳密には、次の最後の「エレクトロ・ワールド」の、「エ」まで黄色で、「レクトロ」で一瞬赤になり、すぐピンがカットアウト。「ワールド」では三人の顔がフッと暗くなっています。

以上、「エレクトロ・ワールド」のピンについて、細かく見てみました。

ところで、舞台照明では、大きく分けて二種類の光源が使われています。一つはハロゲンなどの「白熱系」ランプ、もう一つはクセノンなどの「放電系」のランプです。白熱系は電源電圧をコントロールしてランプそのものを点灯/消灯させてコントロールしますが、放電系ランプはそれが出来ません。

放電系の器具は、機械的なシャッターにより光を出したり消したりしており、内部のランプはつきっぱなしです。なので、白熱系は緩やかな光量変化を得意とするのに対し、放電系はカットイン/カットアウトが得意です。なお、前述のピンスポットは、光源の種別で言うと、放電系ランプのほうに属します。

白熱系ランプと放電系ランプの違いを見ることができる例として、GAMEツアーDVDと武道館DVD、それぞれの、「エレクトロ・ワールド」のイントロを見比べてみてください。

GAMEツアーのほうは、イントロで、逆光で三つの光がチカチカと点滅しています。こういう点滅は放電系の特徴です。一方武道館DVDでは、歌の冒頭フレーズ中に逆光の光が右から左に流れています。これは白熱系の光源です。明るさが緩やかに変化して波のような効果を生んでいます。

実際の舞台照明業務では、照明機材は「ムービング」「一般照明」「ピンスポット」の三種に分類するのが普通です。「ムービング」は放電系の光源で、モーターで向きが動くライト、「ピンスポット」は前述の通り、人が操作して動かすとても明るいライト、「一般照明」はそれ以外の、固定的に設置された白熱系光源の機材を指します。

一般照明は、要するに「昔からある普通の機材」です。これは、安価に大量に導入することができます。一方ムービングライトは、一台で向き・色・柄(GOBO)などを遠隔操作で自在に変えることが出来る、精密機器です。Perfumeのライブは、ムービングがかなりのウェイトを占めています。

他に、舞台で光を発するものとしては、レーザーやLEDパネルがあります。LEDパネルは武道館ライブの舞台背面、直角二等辺三角形ツアーの舞台床面などで使われています。これらは、僕達「舞台照明」とは違う専門領域で、僕もその知識はほとんどありません。

ムービングライトは、名前の通り動くライトですが、光の色を高速に変えられるというのもその特徴の一つです。一つの光源の色が黄色から青に、そして白にと、パッパッと切り替わっているライトを見つけたら、それはムービングです。一方、一般照明は基本的には固定的にはめられたフィルターの色の光を、つけ消しすることができるだけで、一台の光源の色が変わることは基本的にありません。

Perfumeの3枚のDVD、GAMEツアー、武道館ライブ、直角二等辺三角形ツアーのDVDを見比べると、ムービングの数が次第に増えていることがわかります。GAMEツアーではステージ上の客席向きの三台、武道館では、大画面の左右に縦に四台ずつの八台のムービングが、特に判別しやすいと思います。

これが直角二等辺三角形ツアーになると、ムービングライトの台数が急増します。これは予算の増加を意味します。直角二等辺三角形ツアーDVDで、「エレクトロ・ワールド」のサビ「ワールド 地面が」のあたりを、コマ送り再生してみて下さい。ほぼ一コマごとに光の色が変わる部分が観察出来ます。この素早い色の切り替えはムービングならではです。

2010年11月3日、Perfumeは東京ドームライブを成功させました。僕は、そのライブ会場に行ってこの目でその照明を見る幸運を得ました。その時の照明の構成は、ほぼ「オール・ムービング」でした。一般照明は、客席あてと、エンドステージの数字オブジェタッチだけだったと思います。ピンスポットは、僕の視認が正しければ15本でした。ムービングとピンスポットを中心に構成されたドームライブの照明は、それはとても素晴らしいものでした。でも、その隅っこでちょっとだけ設置された一般照明機材が、僕にはちょっと寂しそうに見え、とてもいとおしく感じました。



カテゴリー: 照明


舞台照明と原子力発電

東日本大震災によって、僕たちの住む関東は、今、電力不足に直面している。これは一時的なものでは済まないに違いない。それどころか、むしろ、原発に依存している現在の電力事情そのものが、これからはますます問題視され始めると思われる。

僕たちがなりわいとしている舞台照明は、電気をものすごく使う。僕たちが指一本でフェーダーを上げるだけで、数キロ~数十キロワットの電気が流れる。そして現状、その約三割は、原発で作られた電気だ。僕たちは、そして「脱原発」を望む僕自身は、その事実に、どう向き合えばよいのだろう。

僕は、舞台照明を始めた25年前から、「舞台照明は芸術と言えるのか」という問いを、ずっと考え続けて来た。この問題にずっと向かい続けて、そして最近、ついにやっと答えがつかめるかも、という感触を得かけたところが、今回の震災・原発危機で、すべて壊れてしまった。僕の考えは、明らかに甘かった。舞台照明は、僕の認識よりもはるかに深く、「原発」という巨大な怪物に依存しているのだ。

実際、今回の福島原発の危機的状況を受け、日本国内のすべての原発が早急に停止・廃止される方向に進むことは十分に考えられるし、僕もそれを望んでいる。それを前提とすると、全体の電力不足は避けられず、普段から電力を多く使っている我々舞台照明に対しても、今後、節電の要請・圧力が生じてくることは容易に想像される。

僕自身、すでに自分が携わる照明プランに影響が出始めている。図面に照明機材を書き落とそうとすると、爆発した福島第一原発の、あの無惨な映像が頭をよぎって、手が鈍ってしまうのである。頭の中で、一人の自分が言う「その機材はデザイン的に絶対に必要だ」。もう一人の自分が言う「そんな機材一台、あってもなくてもどうせ客にはわかんないよ。省いちゃえ。そのほうが節電になるし」。

自分のやりたいことが、自分の望んでいないことを前提にしている。僕はいったい、どうすれば良いのだろうか。舞台照明デザイナーは、節電要請を受けて、消費電力が少ない照明プランを考えるよう努力する義務があるのだろうか。もう少し直接的な言い方をすれば、「舞台照明において節電は芸術に優先するのか」。

いや、そんなわけはない。芸術は宗教と同じく、功利的な理由で犠牲にされることは、人間の行為としてはあってはならない。しかし、現に今「節電に配慮した照明」がいくつかの舞台で実施されているという事実がある。それはどういうことか。そういう現場では、節電が、舞台照明効果より優先されているということである。だとすれば、だからそれは、「照明効果は舞台芸術に絶対に必要なものではない」ということが、そこで実証されているということを意味する。少なくとも僕にはそう見える。我々照明家は「節電」の御旗のもと、「芸術」の世界から切り捨てられつつあるのかも知れない。

そうだとすれば、舞台照明は、「舞台芸術」から切り捨てられ、再び「電気工事」の領域に返されようとしている、ということかも知れない。それを、僕たちは受け入れるのか、それとも、それと戦うのか。

この問題を考える時、「事業仕分け」が比喩として浮かぶ。事業仕分けは、限られた予算を、無駄な事業に使わず、国民にとって有効なことに使おう、という主旨だ。同じように、「限られた電力」についても、国民にとって有効なことに電力を配分しよう、という議論が、これから始まるのかも知れない。

舞台照明は、はたして国民にとって必要なものだろうか。僕は、芸術、とりわけ演劇が、現代日本の社会により必要となっている、と主張して来た一人である。同様の理路で、舞台照明も、社会にとって必要なもの、長期的には国民のために大事なもの、という認識が、はたして共有されていくのだろうか。それとも、舞台照明は「芸術」の枠組みから蹴落とされてしまうのだろうか。

僕は、日本が脱原発を遂げることを心から望んでいる。しかし脱原発が本当に実現したら、その時、電気を大量に使う舞台照明は、いったい社会に認めてもらえるのだろうか。あるいは、LEDとか蛍光灯とか、ああいう、電力効率ばっかで表現力に乏しい器具が、舞台でも主流にならざるを得なくなるのだろうか。そういうことを真剣に考えなければならない「日本の舞台照明の危機」が、きっと訪れる。

僕たち舞台照明家は、この大きな変化に、どう立ち向かえば良いのだろう。闘うのか、それとも、それを受け入れるのか。いずれにしても、そういう変化に立ち向かう時が来るという、その「覚悟」だけは、持っていなければならないに違いない。


カテゴリー: 照明