フィラメントの短絡

以前、ある市民ホールでバレエの発表会の仕事をしていた時のこと。シュートの際、あるフェーダーをフルまで上げると調光卓面上の「過負荷」のアラームが表示される、という事態が発生した。これについて考察してみる。

問題の回路は、容量3KWの回路。接続されていたのは1KWの凸が3台。3KWの回路に4KWとか誤ってつないでしまったというような、初歩的なミスではもちろんない。では何が起きたのか。結論を言うと、3台の凸の内の一台の電球内部で、フィラメントの一部短絡が起こっていたのである。

舞台照明器具の電球というのは、ガラスの内部に、らせん状のフィラメントがジグザグの形をして収まっている。たまに、そのフィラメントの一部が接触してつながってしまい、実質上フィラメントが短くなってしまうことがある(下図)。



電球のフィラメントは金属だが、点灯しているときは数千度の高熱になっており、ゼリーのように柔らかくなっている。そこに強い振動を与えると柔らかくなったフィラメントは簡単に破損してしまう。点灯中の電球に強い振動を与えると切れるのはこのためである。ところが、球切れするほどではないが、やや強めの振動を与えた際に、フィラメントの一部同士が接触し、瞬間的に溶接されてつながってしまうことがある(上図)。この現象は、シュートでちょっと乱暴な扱いをするとよくなるのだが、こうなると、その瞬間、ライトがパッと明るくなり、シュートしていた照明さんが「あ゛」ってなる。この、フィラメントの短絡した状態は、フィラメントに許容以上の電流が流れてしまっている状態なので、そのままだと球切れに移行しやすく、放置するのはあまりよろしくない。器用な人は、もう一度振動を与えてこの短絡部分を見事に外して元通りにしたりするのだが、それはなかなかうまくいかない。電球を新しいものに交換すれば良いのだが、フィラメントが一部短絡している電球だって、一応は点灯するのだから、交換して捨ててしまうのはもったいない。実際、現場でフィラメントの短絡だけで電球が交換されることはまれである。そもそも、フィラメントが一部短絡しても、明るさが微妙に変わるだけなので、それが起きていること自体に気づかず、そのまま放置されることも、よくある。

ちょっと説明が長くなったが、さて、では、このフィラメントが一部短絡した状態、というのは、電気的にはどういうことかを考えてみる。

日本の場合、電源電圧が100Vだから、1KWの電球を点灯した際に流れる電流は10Aである。したがってオームの法則により、その抵抗は、10Ωである(電力=電圧×電流、電圧=電流×抵抗)。その電球のフィラメントが一部短絡し、実質フィラメントの長さが80%になったとすると、その抵抗はおよそ8Ωとなる。なお、実際の抵抗値はフィラメントの温度に大きく依存するので、あくまでこれは近似値である。
さて、抵抗が8Ωとなった電球に100Vの電圧をかけると、流れる電流は12.5A。そうすると、その時に消費される電力は1.25KWとなり、本来の値である1KWよりも大きい。だからたとえば、3KWの回路につないだ3台の1KW器具の内の一台にこの現象が起きると、3台の合計が3.25KWとなり、10%弱の過負荷となる。10%程度の過負荷では、ブレーカーはすぐには落ちない。「過負荷」のアラームが表示されたのは、このためである。

短絡によってフィラメントが短くなると、なんとなく容量が小さくなる感じがするかも知れないが、実際は逆で、消費電力は大きくなるのである。1KWの器具が1.25KWになってしまったり、500Wの器具が600Wになってしまったりするわけで、実は、色々な意味で軽視するべきではない事態なのである。だから、フィラメントの短絡を発見したら、そのまま放置するのは決してよろしくない。すぐに短絡を解消するか、それがどうしても無理な場合は、ちょっともったいなく思えてもその電球は廃棄するべきである。

フィラメントの短絡が起きたときに、それを直す比較的簡単な方法をご紹介する。ライトの蓋を開け、電球に直接さわれる状態にして、調光回路を使って数%ぐらいのごく低いゲージで通電する。すると、フィラメントがぼんやりと発光する。短絡している部分は電気が通らないために発光しないから、どこで短絡が起きているか視認できるはずである。その状態で、デコピンをする要領で、指先の爪で直接電球のガラスをピシッとはじいてやる。あまり強くはじくと球切れしてしまうから加減が大事である。振動で短絡部分が離れ、フィラメント全体が発光するようになれば成功である。この方法なら、フル点灯して器具の筐体をぶん殴ったりするよりは、かなり高い確率で短絡を解消できる。



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「特定秘密保護法」と「集団的自衛権」についての極めて大ざっぱな理解

資本主義というのは、とどのつまり、「どうやって自分以外の者にカネを使わせるか」という競争である。僕が子供の頃(高度成長の時代)には、「便利なモノ」がいくつも新しく作られ、大衆はそれにカネを使った。炊飯器、掃除機、冷蔵庫、洗濯機、エアコン、電子レンジ、パソコン、携帯電話などが次々に開発され、普及していった。

しかし、1980年代ごろに、ついに「便利なモノ」は、中流大衆のほとんど全員に行き渡り、これ以上モノは必要ないという飽和状態が訪れた。そのため、資本主義は新たな商品を作り出す必要があった。モノの次に選ばれた商品は、「大金に化ける可能性があるという期待」だった。金融、不動産、株式などである。広告によって人間の「欲」をあおり、「もっと金持ちに」「もっと贅沢に」という期待を持たせ、そのためにカネを使わせるのである。しかしそれらの商品は、1990年代のバブル崩壊とともに大衆の心からは離れていった。

資本主義が次に商品として選んだのは、人間の「不安」である。老後の生活、犯罪被害、災害などへの備えとしての商品、すなわち、保険、防災、防犯などだ。また、若者に対しては「将来の自立への不安」をあおり、受験産業、資格、外国語、就活、婚活などが商品として開発された。

しかし、長い不景気で、全体的に大衆の財布の紐は固くなった。自由意志ではなかなか商品にカネを出してくれない。インターネットにより情報も行き渡るようになり、中途半端な広告では大衆をその気にさせることが難しくなってきている。しかし、そんな状況になっても、大衆がどうしてもカネを使わざるを得ない「聖域」がある。「ライフライン」である。ライフライン(水道、電気、ガス)は、公共性が極端に高い商品なので、その価格は「作り出すのにかかったお金から自動的に算出される」方式がとられている。いわゆる「総括原価方式」だ。これに目をつけたのが電力業界である。作り出すのにかかったお金を元に価格が自動的に決定されるということは、作り出すのにうんとカネをかければ、価格も自動的に高くなるわけだ。逆に、作り出すのにどんなにカネがかかっても、売上げ価格が勝手に上がるから、電力会社は損をしないで済む。この仕組みに乗じて、ものすごく金のかかる「原子力技術開発」「発電所建設」などが推し進められ、電力業界は、多額のカネを大衆から巻き上げることに成功した。しかし、福島原発事故をきっかけに、その化けの皮がはがれ始めていることは周知の通りである。

大衆がどうしてもカネを使う領域が、ライフラインの他にもう一つある。それは「税金」である。税金は、強制的に徴収されるから、カネを出させるための広告などは必要ない。しかし、税金は勝手には使えない。その使い道は大衆が選んだ議会によって決まるものである。だから、利益を得るためには、「税金で買っても良い」と大衆が納得するような、そういう商品を考える必要がある。たとえば橋や道路や公共施設などの建物は、税金で買うものだ。しかし、ちょっとやりすぎちゃって、無駄な橋や、使い道の無いハコモノがたくさんできてしまい、商品価値が下がってきている。

そこで選ばれたのが「兵力(武器)」である。日本ではあまり大っぴらには言われないが、軍事用の武器(艦船、航空機、車両などを含め)は非常に利益を出しやすい商品である。何しろまず、材料などの詳細を必ずしも公開する必要が無い。武器の中身は「軍事機密」だからである。そして、市場規模がものすごく大きい。買い手に中身の詳細を知らせること無く、かなりの高額で売ることが出来る、売る側にとってはとても魅力的な商品である。日本の産業も、ずいぶんたくさん武器を作り、売ったはずである。しかしそれも冷戦時代に米ソがやりすぎて「相互確証破壊」にまで行ってしまい、「これ以上武器を増やすべきではない」というのが現在の国際的な空気になっている。

それでも資本主義にとって、武器が非常に魅力的な商品であることは間違いない。しかし、現状では「これ以上武器は必要ない」ということになってしまっている。そこで考えられたのが、「武器を使って減らす」というソリューションである。つまり、戦争をするということだ。買ってもらった武器を、どうにかして消費させることができれば、資本主義は再び利益を上げることができる。しかし、日本には戦争放棄の憲法がある。だから戦争はできない。ではどうやって武器を消費させるか。答えは「アメリカの戦争に参加すれば良い」である。アメリカは、税金で武器を買う→買った武器を戦争で使って消費する→消費して減った分の武器をまた買う、というサイクルの武器産業構造がすでに回っている国家である。だからアメリカはいわゆる「テロとの戦争」をたくさんやっている。その戦争に日本が「特定秘密保護法」と「集団的自衛権」で参加することができれば、まだカネをもうけ続けることができる。

以上が、僕個人の大ざっぱな理解である。

*この文章は、あくまで素人の個人的な理解で書いたものです。専門家ではありませんので誤解や不正確なところも多かろうと思います。そのつもりで、話半分でお読み下さい。この文章を何かの参考文献にしたりなどは、決してしないで下さい。


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「安倍政権が悪い」とは言いたくない

TPP、消費税、原発再稼働、特定秘密保護法など、安倍政権はますます「とんでもない」方向に進んでいる。この国に住み続けなければならない僕たち日本人の未来がどうなるのか、とても心配になる。

ただ、たしかに安倍政権のやってることは心配ではあるのだけど、それよりさらに気になることが僕にはある。それは、安倍政権に対する態度が「二極分化」しているということだ。いや、安倍政権を支持する人たちは僕にとってはどうでも良いのだが、安倍政権に反対する僕たちの側があまりにも「安倍政権が悪い」という攻撃的な方向に、行き過ぎているように思えるのである。

安倍政権は、確かに悪い。しかしそれは、あくまで、悪い政策をたくさん進めているから、それらを統計的に見て、「この政権はまずい」という判断になるのであって、安倍政権のやることなすこと全てを「悪」と最初から決めつけるのは、やはり間違っていると思う。

内田樹先生が以前「いじめについて」というブログエントリーでお書きになったように、何か悪いことがあったとき、人間はどうしても「供犠」(くぎ)を求めてしまう傾向がある。悪いことの「原因」を何か(あるいは誰か)に押しつけ、それを排除することにばかりに一生懸命になってしまい、問題の本質を見失ってしまうことがあるということだ。僕たち人間は、そういう性質を持っているのだということを、いつも自覚していなければならない。

安倍政権を「悪者」にし、大声で「悪だ」と叫ぶことは、安倍政権への反対勢力を結集するための手段としてはある程度有効かもしれないが(それが「供犠」というものである)、本当に今の政権の悪事を止め、あるいは勢いを削ぐためには、現政権を支持している人たちや、無関心な人たちの心を動かすことが重要である。安倍政権への反対勢力を結集させることを、悪いとは言わない。しかし、いたずらに対立を激化させて政権支持派の人たちの態度を硬化させてしまっては、状況改善をかえって遠のかせるように思う。

だから僕は「安倍政権が悪い」という言い方はしたくない。「安倍政権がやっていることの一つ一つ」、TPP、消費税増税&法人税減税、特定秘密保護法、原発再稼働、日本版NSC、といった数多くの誤った政策(だと僕は思う)、それらのどこが悪いのかを、きちんと説明しなければならない。そこを混同してはいけない。全部ひとからげにして「安倍政権が悪い」という言い方をするから、「サヨク」と逆にひとからげにされてしまうのである。政権がやっていることの一つ一つ、それぞれどこに問題があるかを、きちんと伝えていかなければならない。ましてや、安倍総理や石破幹事長への個人攻撃など「百害あって一利なし」である。


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原発事故の「被害者」は誰か?

先週、「観察映画」で知られる映画監督の想田和弘さんと、実業家の堀江貴文さん(ホリエモン)が、ツイッター上で「原発を存続すべきか廃止すべきか」の議論を展開した。僕はたまたまそのやりとりをリアルタイムで読んでいて、大変興味深い議論だと思ったので、togetterを使用して『まとめ:想田和弘さんと堀江貴文さんとのやりとり』という形にまとめてみたところ、非常に多くの方に読んでいただき、多くの方からたくさんのご意見・ご感想をいただいた。→ http://togetter.com/li/538858

この「まとめ」を作るにあたっては、出来るだけ恣意的にならないように、また、僕自身の考えが「まとめ」に現れないように注意した。もちろん、このブログの過去記事を見れば、僕がいわゆる「脱原発派」であることはすぐにわかるし、その気になって調べれば、実は想田監督と僕とは親交があるということも、誰でもわかることである。しかし、この「まとめ」を作る際には、出来るだけ、そういうこと(僕個人の意見)が表に現れないように注意した。なぜなら、僕がこの「まとめ」を作ろうと思った目的は、想田監督のように脱原発の正しさを主張することではなく、もちろん堀江さんのように原発維持の必要性を主張することでもなく、そのどちらの道を選ぶべきか、読む人に迷って欲しい、考えて欲しい、そう思ったからである。そういう読み方ができるような冷静な議論、結論を開いた形での議論を進められた想田さんと堀江さんのお二人には、深く敬意を表したいと思う。

そういったわけで、この「まとめ」を作る際には、僕自身は自分の意見が表に出ないようにしたわけだが、では僕自身の内心では、この想田さんと堀江さんの議論を見てどういう感想を持つのか。それを、そろそろ表明して良い時が来たと思い、この記事を書いている。

想田さんと堀江さんの議論を読んで、僕自身がどう思うかというと、お二人には失礼ながら、「僕が一番気になっている点については、まったく触れられていない」というのが、実は正直な感想である。

「まとめ」を注意深く読んだ方はお気づきだと思うが、この議論の中で、想田さんと堀江さんは、基本的に対立はしているものの、一部、いくつかの点で意見が一致しているところがある。例えば

・除染は経費がかかるわりに効果が低いので、除染よりも住民の移住や賠償を優先するべきである

・事故の際に国家が補償する現在の仕組みをあらため、再稼働にあたっては民間保険会社の加入を義務づけるべきである。

という2点を、両者の意見が一致しているポイントとしてあげることができると思う。

しかし、僕個人は、この二つの一致点の、どちらにも、違和感を感じてしまう。もちろん、いずれも間違いだとは思わない。二点ともその通りだと思うし、現実的にも良い提案だということに異論はない。しかし僕は、「もっと大事なことがあるだろう」と、どうしても思ってしまうのである。

ここであらためて問いたい。この原発事故の「被害者」は誰なのか。

世間やメディアでは、「加害者」が誰であるかという話はうるさいほどに聞く--東電、政府、原子力ムラなどなど。しかし、この事故の「一番の被害者」が誰であるかということを、人々は今一度、思い起こすべきではないかと、僕は思うのである。この事故における、一番の被害者は、もちろん、福島第一原発の近くに住む人たちである。だが、事故のあとに、やれ「節電」だ「計画停電」だと、原発から遠く離れた都市にも様々な影響があったため、原発の電気をこれまで大量消費してきた首都圏民をはじめ、広く、ほぼ日本全国民が、なんとなくこの原発事故に対して「被害者意識」を持つに至った。

もちろん、それが間違いだと言うつもりはない。放射能の汚染や風評により、日本の農産物・海産物は大きな打撃を受けているという。僕自身(神奈川県在住)も、事故直後は、電車が節電要請のために運転を取りやめて、仕事場に行くのに苦労するといった不便な目に実際にあったし、自分の職業(舞台照明)が電気を大量に使うという事実について深く悩んだりもした。また、この事故が引き金となって、日本全国の原発が停止し、その再稼働が「はばかられる」事態におちいっている。今回の地震・津波の直接の影響が無かった関西地域などは、「今まで問題無かったのに今回のことのせいで不本意に原発を止めさせられた」と感じる人も、おそらくいるに違いない。それもある意味、今回の事故の「被害」と言える。だから、必ずしも事故原発(福島)の近くに住んでいなくても、日本全国民が多かれ少なかれこの事故の「被害」を受けたということは、たしかに間違いないだろう。

だから今は、日本全国民がみんなでよってたかって、原発を「○○すべきだ」と言っている。原発事故から自分自身が受けた何らかの影響(被害)を根拠に、自分も原発に対して「もの申す権利」がある、と思っているからだと思う。

そして、悲しいことに、結局(またしても)、「カネの話」が中心になって来ている。いわく「原発を止めて火力に頼ると燃料費がうんぬん」、「原油価格は中東情勢に大きく影響を受けるので、それに依存しない原子力が必要うんぬん」。そういう、「カネの話」が増えてきたなぁと思ったら、それに対する脱原発の人たちも、一緒になって「カネの話」の土俵に乗ってくるではないか。いわく「廃炉費用のことまで考えたら原発のほうが高くつく」、「放射性廃棄物の処理費用まで算定すると原発は膨大な赤字」などなど。

ちょっと待って欲しい。大事なことを忘れていないか。「一番の被害者」のことを。

僕にも、福島県内に友人がいる。その人がいる場所は、避難区域に関わるほど原発の近くではないが、それでも原発事故のあとの、悲痛な言葉の数々が、強く印象に残っている。

「輸送路はあるのに輸送車両(救援物資)が全く来ない」
「職場を捨ててさっさと逃げる上司、パート従業員が全員避難するまで踏みとどまる店長」
「学校の授業が再開したが、子供達にとってどれくらい危険なのか説明が無い」
「被爆の限界量が引き上げられる。より地面に近い子供はますます被爆する」

それらの言葉は、どれも声は小さいけれど、身近で、切実で、悲痛なものに感じられた。

福島の、原発近くにいる人たちは、はたして、最初にあげた、二人の二つの一致意見、

・除染は経費がかかるし無駄だから移住費用と賠償負担を優先して欲しい
・国家が賠償する仕組みをあらため、民間の保険会社に加入することを義務づけて欲しい

といったことを、望むだろうか。

そう考えると、何か、ちょっと、「ずれている」と、僕は思ってしまうのである。

原発の近くにいる人の「精神的打撃」は、僕たちのそれとは、きっと比べものにならないほど大きいものだと思う。景色は何も変わらないのに、目に見えない「放射能」というものが原因で、住み慣れた土地から出なければならない無念。「避難する」者と「残る」者とで、人間関係が行き違っていく不条理。遊びたい盛りの子供達を屋内に閉じこめなければならない理不尽。その心理がどういうものか、それは僕の想像を超えている。

「今回の原発事故で直接の犠牲者はいない」などと言う人がいる。それは、統計的な分析としては正しいのかも知れない。しかし、原発事故のせいで、「心」に大きくて深い「傷」をうけた人たちがいる。それこそが、原発事故の最大の「被害」だと、僕は思う。

電力? 燃料費? 活断層? 景気回復? ちょっと待って欲しい。

飛行機だって、その設計が原因と考えられる事故が起きたら、とりあえずその機種の運行は全便をいったんストップして、徹底的な原因究明が行なわれる。いやもちろん、飛行機と原発を同じレベルで比べることはできない。でも、福島第一原発は、とんでもない大きな被害を出した。だったら、まずは、とりあえず、「どこに(あるいは誰に)問題があったか」を、きちんと時間をかけて調べることが、先決じゃないのか。少なくともある程度その調査の見通しが立つまでは、もうちょっと「おとなしく」してるのがスジじゃないのか? そういうのをすっ飛ばして、「待ったなし」とか「加速化」とか言うのは、話の筋目が違うんじゃないか?

こういうことを言うと、「それは感情論だ」という人がいる。ああ、その通りだ。これは感情論である。断言するが、本当は「経済」なんかより「感情」のほうがずっと大事だと、僕は思っている。それを僕は強調したい。だって、たしかに「経済的」に窮すれば人は生きられないけど、それ以前に、「感情的」に行き詰まれば、人はもっと「死」に近づいてしまうのだから。だからこそ、「感情」のことをもっと大事に考えるべきだということを、僕は強く言いたい。だから、一番の被害者、傷ついた人、悲しみに暮れている人に対して、心を配り、このような事態を招いたことを、皆で、じっくりと省(かえり)みるということを、僕たち全員が、まずするべきなんじゃないのか。この2年以上、僕たちは、一番大事な問題から、逃げてるんじゃないのか。

「再生可能エネルギー」とか、「核燃料サイクル」とか、「日本経済」とか、「風評被害」とか、そういう話も、もちろん不必要とは言わないが、それらは、本当に、「一番の被害者」の「心の傷」よりも、大事なことなんだろうか? 本当に、優先すべきことなんだろうか? 傷ついた人を救うために、経済的な犠牲も当然必要だということを、僕たちは忘れていないだろうか? 自分たちの利益のために、原発を「すぐ再稼働」だの「即時停止」だの主張する権利が、僕たちに、本当に、あるのか?

現在の「原発推進×脱原発」という大きな対立、その大きな議論のほとんどが、大事なものを「見て見ぬふり」をしながら行なわれているように、僕には思える。

深く傷ついている人たちがいる。さいわい傷つかなかった僕たちには、傷ついた人を「気遣う」、その義務があると思う。「一番の被害者」たちのことを考えていないような議論には、僕は参加する気になれない。

長々と書いたが、まだ、言いたいことをうまく言えた気がしない。
でもきっと、僕のこの気持ちをわかってれる人が、どこかにはいると、信じたい。


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自分の文脈

ブログ更新をしばらく怠っていた。
この間の政治的できごとを振り返って、現段階における個人的な総括と見通しを書き留めておきたい。

という文を読んで、ブログを久しぶりに更新するときの書き出しとして、なんてカッコイイんだろうって思った。上記の冒頭文は僕の文ではなく、内田先生のブログの今日アップされたエントリーの最初の二行である。そのエントリーそのもののタイトルは「日本の文脈・アメリカの文脈」である。やや長めの文章だが、わかりやすく、とても素晴らしい内容なので、ぜひご参照されたい。

実は、僕自身には、いまのところ自分でブログに書きたいものが、あまり無い。いや、書こうと思えば、ネタは色々ある。毎日色々な目に遭っているし、あ、そうそう、今月は三条会の『三人姉妹』の照明もやったから、その解説なんてものは、格好のブログネタである。しかし、今の僕は、どうもそういう、長めの文を書く動機が、あんまり無いのである。

首相や都知事や大阪市長らは、ますますメチャクチャである。そのことをネタにしてブログ記事を書くこともできるだろう。しかし、最近の彼らは、もう、あっきっらっかに行き過ぎており、その言動は、もはや「誰の目から見てもおかしい」状態である。だから、わざわざそれをブログに取り上げて書こうという気にすらなれない。

そういえば、数年前、ある著名文化人が、下記のような予見を述べたのを思い出した:

「今の日本国はあと数十年の内に滅びるであろう。こう言うと驚く人がいるかも知れないが、考えてみれば、ここ150年ぐらいの間に、日本国は二回も、事実上滅びた経験を持つ。1868年と1945年だ」

この発言が出たのは演劇関連のイベントで、たしかその文脈は、チェーホフが描いていたロシア帝国がその後すぐに滅び去った、という話と関連していたように思う。

この予見(日本国が滅びる)が、いよいよ現実味を帯びてきたな、と最近思う。

このようにとりとめもない話をダラダラと書く理由も実は無い。ただですね、ちょっとこのブログを更新しておきたかったのです。その一番の理由は、TPPの話がいつまでも自分のブログの一番上に表示されているのが、なんとも不愉快だったからである。

だから今回は、ある程度長期間、一番上に表示されててもあまり不愉快にならないような文を心がけたつもりだが、いかがだろうか。



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