池田信夫氏の内田樹氏に対する意見について

内田樹先生がブログに「最低賃金制の廃止について」と題した記事をお書きになった。その中に、下記のような文が含まれていた。

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橋下市長は「最低賃金のルールがあると、あと2,3人雇えるのに1人しか雇えなくなる。安く働けということではなく、賃金はできるだけ出して雇用も生んでもらう」と30日の記者会見で述べた。
市長はたぶん四則計算ができるはずだから、1人当たり時給800円のルールを廃止して、それで3人雇うということは、1人当たり時給267円になるということはわかると思う。

-----------内田樹の研究室「最低賃金制の廃止について」より

それに対し、池田信夫氏が次のように反論した。

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内田氏は小学生レベルの算数もできないらしい。「あと2,3人雇えるのに1人しか雇えなくなる」という言葉を、勝手に「1人分の賃金で3人雇う」と解釈しているが、もちろん橋下氏のいっているのはそういう意味ではない。たとえば従業員100人の工場で800円×100人の賃金原資は8万円/時。ここで80000/103=776円に賃下げすれば、あと3人雇うことができる。最賃を廃止するというのはそういうことだ。

-----------池田信夫 blog「内田樹氏の知らない最低賃金制度」より

元発言者である橋下氏は、そもそもいったいどのような意図で「あと2,3人雇えるのに1人しか雇えなくなる」と言ったのか。その解釈は、おそらく池田氏の解釈が正しく、内田先生は橋下氏の発言意図を、その意味では誤解したのだと思う。

「たとえば一人当たりの賃金800円では100人しか雇えないところ、それを776円にすれば、同じ予算で103人雇うことができるではないか」と、橋下氏はたぶん、そういう意図で言った。

なるほど。

では、お尋ねするが、なぜ、800円の賃金の人を賃下げしなければならないのか。たとえば、もっとずっと高い賃金を得ているあなた、およびその同僚、100人の賃金を、それぞれたった24円だけ下げれば、合計で2400円だから、それでも800円×3人の雇用を生むことはできるではないか。

それともあれか。あなたがたは、自分たちの賃金を24円下げるのは嫌だが、800円の最低賃金(強調するが「最低」賃金である)で雇われている(or雇われようとしている)100人の人は、プラス3人の雇用を確保するために自分の賃金を24円ぐらい下げることには易々と同意してくれるであろうと、そう言いたいのか。

雇用を確保するために、誰かが「割を食う」ことが、仮にしかたがないことだとしても、「最低賃金」労働者にその割を食わせることは、とても正しいとは思えない。

「最低賃金」というのは憲法25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」に基づいて定められている、厳粛なものである。この定めは、国民を不当な搾取から守るセイフティネットの役割を担っているのであって、軽々にないがしろにして良い性質のものではない。

不当に安い賃金で人を働かせてはならない、という、当たり前のことを制度化したのが「最低賃金制度」である。最低賃金を無くしたほうが雇用が生まれるというのは、最低賃金以下で人を働かせたい人たちのエゴに過ぎない。

雇用を生むには、現在増加しつつある「富の分配の偏り」を是正する必要がある。それはそうだろう。「既得権益」を崩していかなければならない。そうですか。

しかし、「最低賃金」の労働者は、文字通り「最低」の賃金で働いているのであって、かれらは「富の分配」や「既得権益」から最も遠いところにいる人達である。そこを削ろうというのは、いくらなんでも話の筋目が通らない。

最低賃金の撤廃を望む者たちの狙いは、ますます富の偏りを増やし、貧富の差を拡大し、自分たちが低賃金労働者から搾取することである、ということは、内田先生がご指摘になった通りである。

以上、池田信夫氏のブログがあまりに悪質に思えたので、反論を書いておく次第である。

なお、池田氏は同じ文の中で、最低賃金とは無関係な雇用環境がいくらでもあるかのような物言いをしているが、最低賃金が守られていない雇用があるとすれば、それらはすべて、違法である。「委託契約」なら最低賃金は関係ない、みたいに書いているが、それは違う。「委託契約」の場合には、最低賃金を守っていなくても「バレにくい」、と言わなければならない。そういう状態を、さも当たり前であるかのような言い方をするとは、ひどいとは思わないか。

*念のため付け加えておくが、雇用主からの強制力が無いような、自分の意志で自発的に行なう仕事に対する報酬は、最低賃金を下回ることがあってもかまわない。たとえばボランティア活動は違法ではない。

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なぜ「再稼働」させたいのか

大飯原発が再稼働しそうである。

僕はテレビもほとんど見ないし新聞も読まないので、ニュースはもっぱらネットだけが情報源だが、どうも様子をうかがうと、国民の多くが再稼働を望んでいないのに、野田総理、橋下大阪市長、時岡おおい町長などの政治家が中心となって、再稼働を進めているらしい。

福島第一原発は、国土の一部が失われたと言っても過言ではない、大変に大きな事故を起こした。これから何十年も、場合によっては百年単位で、汚染を取り除いていかなければならない。そのコストを考えたら、原発は、金銭ベースだけで見ても、まったく割りに合わない方法である。そんなものは、今すぐやめるべきだと考える、僕もその一人である。

しかし、おおい町長が再稼働を求めるのは、まだ少しわかる気がする。原発の発電事業は、きっと莫大な雇用と税収を、おおい町にもたらして来たに違いない。小さな町にとって、この巨大産業がいきなり消滅するのは、短い視野で考える限り、大きな損失になるであろうことは、なんとなく理解できる。

おおい町のような原発の立地自治体が再稼働を望む理屈はある程度わかるが、原発から遠く離れた、野田総理や橋下市長らが、なぜ再稼働を進めようとしているのか。その理由は「電力不足」であると報じられている。しかしそれは「表向き」の理由である。実際は、みんなよく知っているように、電力はギリギリ足りているのである。原発再稼働を進める理由は「電力不足」などではない。本当の理由は別の所にある。

それを理解するためには、「原子力発電」は、とてつもなく金がかかるということを知る必要がある。原発の建設費用とか、今回の事故の被害額とか、廃炉にかかる費用とか、そういうのは全部、何百億とか何兆という単位の、僕たち凡人にはまったくリアリティを持てない金額である。皆さんは「札束」の現物を見たことがあるだろうか。百万円の札束は、厚みが約1センチである。一千万円は約10センチ、ちょうどレンガみたいな大きさになる。この「レンガ」を、縦10×横10の形に100個四角く並べると、だいたいタタミ1畳弱の大きさになる。それが10億円。そのタタミを10枚作ると10畳の広さになり、これが100億円。レンガの数としては1000個。その10畳のレンガを50段積むと、およそ5メートルの高さになり、5000億円。福島第一原発の建設費用は、それぐらいかかったそうである。福島第一だけでこの金額だから、日本全国の原発にかけられた費用は、少なくとも十兆の単位である。「脱原発」は、その莫大な投資の多くが無駄になるということを意味する。

今までの投資が無駄になるだけならまだしも、原発は、たとえ停止していても「維持費」がかかる。前にこのブログでも書いたが、原子力発電所というのは、停止したからといって放っておけるわけではなく、何年にもわたって燃料を冷却しながら管理しなければならない。現在、日本の原子炉は全て発電を止めているが、それでも莫大な維持費がかかっている。その額は、一日あたり数億の単位である。原発が電気を作り出していれば、当座の(=短期的な)採算は合うのかも知れないが、発電をしない原発は、莫大な金を、ただ食いつぶすだけの施設である。その維持費用をどうするのか。原発を無くすには、最終的には「廃炉」にしなければならないが、その廃炉にも莫大な費用がかかる。その費用を、誰が負担するのか。

現在も、これからも、電気を生み出さない原子力発電所を維持、または廃炉にするために、たくさんの技術者が日々働いている。脱原発は簡単に「はい、原発ストップ。脱原発だん」というわけにはいかない。脱原発を完成させるためには、「維持」と「廃炉」という、遠い道のりを経なければならない。その過程で、原子力の専門技術者達は必要不可欠である。その人達を、脱原発が達成されるまで、誰が、どうやって食わせていくのか。技術者を食わせることができず、原子炉を放置すれば、燃料は暴れ出す。誰かが、原子炉を見張り続けなければならない。その見張りを続ける責任は、誰にあるか。僕は、これまで原子力の電気を使ってきた僕たち全員に、その責任があると思う。電力会社だけに全ての責任を押しつければ良いとは、僕は思わない。

しかし、そのような負担を「自分のこと」として、「自分達の責任」として受け入れる国民が、どれほどの割合いるだろうか。とてもじゃないが、国民の大多数を納得させることは無理であろう。だから、少しでも負担を減らすために、安全が確認された原発に発電をさせて、利益を出していくしか方法がない。おそらく、野田総理や橋本市長はそう考えているのだと思う。

皆さんはどう思うだろうか。原発の廃止は、「国民の意志」なのか。そうだと言うなら、国民全体が責任を持って、停止原発の「維持」「廃炉」を行なっていかなければ(その費用負担を受け入れなければ)ならない。

あるいは、今回の事故を含む、原発の問題は、すべて東京電力(を中心とした原子力ムラ)の責任なのか。そうだと言うなら、彼らが彼らの責任において「再稼働する」というのを制止する権利は、僕たちにはない。そうは思わないか。

僕は、「脱原発」を望む者の一人である。原発が今や電気という「商品」を作り出せなくなった以上、停止原発の「維持」「廃炉」の費用のために電気料金の値上げが必要だと計算されるなら、それはしかたないことだと、僕は思う。

(以上はあくまで僕の個人的な推測です。あながち的外れだとは思っていないし、僕自身はこれが正しいと信じていますが、この文章の記述を、何かの主張の証拠資料にしたりは、決してしないで下さい)。


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橋下大阪市長がMBS記者を罵倒したと言われる取材の全文

下記の取材全文は、秋原葉月さんのAfternoon Cafe のカテゴリー「悪しきポピュリスト達にNO!」の「詭弁術講座」(全5回)の、全文をコピー&ペーストさせていただいたものから、秋原さんの解説文を取り除いて、さらに、YouTubeの音声を注意深く聞きながら、出来るだけ元発言を詳細に正確に漏らさず記述することを主旨として加筆、整形したものです。

秋原葉月さんに、あらためて感謝申し上げます。ありがとうございます。

この色の字は、橋下徹大阪市長の発言です。
この色の字は、MBS女性記者の発言です。
この色の字は、MBS男性記者の発言です。
この色の字は、その他の人の発言です。

凡例:
☆:隣り合っている☆がついた行と同時に発言
★:前の発言が言い終わる前にしゃべり始め
/:あとの発言に邪魔されて中断
***:何か発言しているが、聞き取れない

以下、2012年5月8日大阪市、橋下市長登庁時囲み取材、全文

お願いします。

(間)

小沢元代表の党員資格停止処分の関連なんですが、今日にも解除の判断***る見通しなんですけれども、無罪判決のあとのですね、連絡っていうのは、まだ、無かったんでしょうか。

あ、何ですか?

あの、小沢さんと連絡、電話でやりとりなど、

あ、無いです、無いです。

ま、処分の解除については、今の***、控訴前の時点で、***なさるっていうのは妥当、***

そりゃ民主党さんの内部手続きですから。・・・僕が言うことではないです。

(間)

あの、毎日放送本社の斉加と申します。あの、君が代の起立斉唱について、アンケートを行なったんですけども、府立学校校長の43人の方から回答がありまして、そのうち22人が、まあこの、職務命令によって、起立斉唱を行ったことについては賛成とおっしゃってるんですが、あの、起立と、斉唱、それぞれ確認すべき、と考えていたという校長は、わずか一人だったんですけれども、いかがですか?

それはもう各校長の判断でしょうね。ただ職務命令の内容は、「起立と斉唱」です。それがあの、教育委員会、教育行政の最高意思決定機関の、決定内容です。だから起立と、斉唱を、命令、命じたわけですから、あー、それをしっかり守るということが、教育委員会の管理下に入ってる、校長の、職務だと思いますね。あとは、それぞれどのように判断するかっていうものは、これは教育委員会も、各校長の判断ににゆだねると、いうことを言ってますので、もうそこは校長のマネジメントにゆだねますけれども、しかし職務命令の内容は「起立と斉唱」です。

ただ実際にはその43人のうち38人が、「起立斉唱」一つととらえればいいというふうに、思った、と言うことなんですけれども、

だから職務命令、

ん? 起立と斉唱、

はい、

起立と斉唱って、立ってるだけじゃ起立じゃないですか。そんな国語ありますか? 「起立斉唱」ということを小学生に言って、「起立斉唱しなさい」といって、立ってるだけで音楽の点がつきますか・・・どうですかね。

・・・あの一律

いやいや僕がまず質問してることについて答えてください。

いや、あの私の方からお聞きするんですけれども、

あ、いやいや、お聞きするんじゃなくて、この場は、別に議会じゃないので、僕は答弁の義務だけ負ってるわけじゃないんです、どうですか、起立と斉唱について「起立斉唱」という言葉の中に、立つだけの意味しか入っていませんか?

や、あの、歌っていることも入っていますけれども、一律に歌わせることまで強制するということについてはいかがですか?

起立・斉唱・命令なんです。・・・どうなんですか。教育委員会の決定なんです。「起立斉唱命令」です。この国語の中で、斉唱の命令は入っていませんか?

・・・あ、そうすると、

まずどうですか?

歌わせない先生にも

いや、回答、答えを言わなければ僕も質問には答えません。そら対等な立場ですから、どうですか? 斉唱の命令の中に、斉唱命令という言葉の中に斉唱の命令は入っていませんかどうですか?

斉唱の命令は入ってるとしまして、では一律に、歌わせることについてはどうですか?

「起立斉唱命令」は誰が誰に対して出したんですか?・・・命令は誰が誰に出したんですか、言って下さい。・・・まずそういう事実確認から入りましょう、命令は誰が誰に出したんですか。

・・・命令は出してらっしゃいますけれども

誰が出したんですか?

それはマネージメント

誰が、誰が出したんですか。

それは、市長がよくご存じじゃないですか?

いや、だから誰が出したんですか。まずそこを、事実確認をしっかりしてから取材をしてください、誰が出したんですか。命令は。

・・・あの学校長の

命令は誰が出したんですか、まず答えて下さい。そんな事実確認が不十分な取材なんてのはとんでもないですよ。命令は誰が出したんですか。

市長がご存じのことを私に尋ねてらっしゃるだけですよね? それはおかしなことじゃないですか、

いや、そんなことないですよ、知らないのに質問なんかできないじゃないですか。

いや、知ってますよ、

じゃあ言って下さいよ、

でも答える必要はないということです、あの、

じゃあ僕も答える必要ありません。

どうぞ、次の質問いってください。

あ、あの、えーと、すいません、じゃあですね

いや答えません。そんな事実確認が不十分な取材なんかに答えません。

いえ、あの事実確認は

命令は誰が、誰が主体なんですか、まず答えてください。

中西教育長じゃないですか?

え?

中西教育長

とんでもないですよ。もっと調べてくださいよ。教育長が、命令出せるんですか。

教育委員長ということですか。でも

委員長じゃないですよ。だれが教育行政の決定機関なんですか。そんなことも知らずに取材なんか来るんじゃないっすよ。何を取材しに来てるんですか。命令の主体ぐらい知らないのにね、なんでこんな取材ができるんですか。じゃ誰に対して命令を出したのか言ってください。命令の名宛、命令の対象者は誰ですか。

あの、こちらが

答えてください。そこが重要なんです。一律だっていうふうに言ったでしょ、命令の対象は誰なんですか。

一律強制じゃないんですか?

命令の対象は誰か言ってください。

じゃ、私からお聞きします

命令の対象をまず言いなさい。そこに全部答えが入っています。命令の対象は誰ですか。

・・・あの私からお聞き

命令の対象は誰かまず言いなさい。そこに答えはすべて入ってる。

あの一律に歌わせるかどうか

一律かどうかってのは命令の対象のなかに全部入ってるから答えなさい。・・・答えられないんだったらここに来るな。・・・命令の対象の中に全部入ってる。命令を読め。まず読んでからここに来い。勉強してから来い。

思想良心の自由との絡みはどう

関係な、まず言え。命令の対象は誰なんだ。命令の対象は誰なんだ。

市長、ちょっと落ち着いて

君の方が落ち着きなさい。

あの学校長の・・・、あの学校長の・・・、

事実関係も知らないのに取材するなって。勉強不足なのはもうみんなわかってる。

学校長のマネジメントについてお聞きしたいんですけど。

まずは命令の対象を答えてから。

教育委員会から、校長に、あの、出されてるんですけれども、その受けとめっていうのはやっぱり校長によって違うと思うんで、そこの部分をちょっと聞きたかっただけなんで、

まず命令の対象をまず確定しましょう。命令は誰から誰に出されたのか。そこに全てが入ってますから。

教育委員会から、校長に、出されてます。

違います。違います。・・・そこは変わりました。・・・全教員に出されてるんです。

校長から教員に

違います。教育委員会から全教員です。・・・これが職務命令。教育委員会が決定したのが、教育委員会から全教員に出された。・・・それ知ってたか?・・・知ってたのかどうか。

ではですね

まず知ってたのかどうか。僕が知ってることは全部知ってると言ってた。

知ってましたよ。

全教員だろ。それが一律かどうかってことぐらい言葉でわかるじゃないか。

だから一律強制ですよね?

何を言ってる、一律強制、もう、ほんと、ふざけた取材すんなよ。

一律強制ですよね?

当たり前じゃないか、命令に入ってるだろ?

では、じゃ一律強制で、歌わせることについては、思想良心の自由とどうですか。

教育委員会

***

教育委員会に聞いたらいいじゃないすか。起立斉唱命令で教育委員会が全教員に出したんだから。教育委員会に聞いたらいいじゃないの。

いや、市長にお聞きしてるんですけど。

教育委員会が出したんだからその命令は。

でも市長が条例を制定されて出したんです。

条例に基づいて出したのは教育委員会なんだから。出すか出さないかは教育委員会の教育マネジメント。それが地教行法による、教育委員会のマネジメントなんです。我々は条例を作っただけ。職務命令を出すかどうかは教育委員会のマネジメント。2002年に教育委員会が、起立斉唱を決定したのは教育委員会だ。まずそこを取材しないと。

あの、取材はしています。ですから

じゃあ教育委員会はなんて言ってました?

歌わせるかどうかを

教育委員会はなんていってたか。

市長、あの

いや、教育委員会がなんて言ってたかまず聞かないと。思想良心に反するというふうに言ってた?

いや、それはおっしゃってませんよ、

じゃあいいじゃないのそれで。

いや、だから、中原校長の口元チェックについては、この条例の枠内だというふうにおっしゃってます。だから教育委員会は

じゃあそれでいいじゃないの。職務命令の範囲内じゃないですか。

いや、だから教育委員会がやり過ぎだとはおっしゃってないですよね?

誰が?

私は、私は市長にお聞きしたいんです。その

僕が命令の主体じゃないんだから。まず法律のその構造をきかないと。考えないと。

それは無責任じゃないですか?

無責任じゃないよ、それが教育委員会制度だよ。僕に決定権があるんだったら命令出すよ。決定権がないから教育委員会が出してるんじゃないか。それが教育委員会の中立性っていうもんだろ。何が無責任なんだ。地教行法を見て、誰が教育委員会が決定主体なのかどうか見てみろってんだ。

条例を作られたのは

条例と命令は違うだろ。

学校

命令は違うだろ。条例は命令とは違う。

じゃあ、学校長のマネジメントについてはいかがでしょうか? この

それは教育委員会が考えること。

このアンケートについては

教育委員会の、それはそこ、あのー、教育行政の範囲内じゃないの。僕が答える事じゃないでしょ。

それは逃げてらっしゃいますよね?

逃げてないよ。

じゃあ私が答えなかったら逃げてるとおっしゃったじゃないですか

地教行法の、じゃあ教育委員会と首長の権限分配のことを言ってみなさい。24条と25条に書いてあるから。

えーとこちらとしてはその、学校長が、この思想良心の自由の配慮はなくなったと。無理して一律に歌わせる、ということは、思想良心の自由への配慮がなくなったと受け止めてるっていう校長が、9人いらっしゃるんですけど。

教育委員会に聞いたらいいじゃないの。教育行政は教育委員会が最終決定権者、責任者なんだから。校長のそういう考えを全部くみ取るのは教育委員会でしょうが。今の法律上の制度では。誰が教育行政の最高の決定権者と責任者なんですか。・・・答えてみなさい。そこに問題提起をしたのが今の僕の考え方なんでしょ。僕の考え

条例を作られたのは市長ですよね、***

教育行政の決定権者と責任者は教育委員会なの。

じゃあの、この話と切り離しまして、その斉唱、歌ってるかどうかと、憲法19条についてはどうお考えなのか、ちょっとお伺いさせて下さい。

教育委員会に聞いてください。教育委員会の命令に関して僕が答えるようなことじゃありません。教育委員会の命令です。

いや、一般論としてお聞きしてるんです、どうお考えですか?

僕の職務権限外です。・・・質問の仕方が悪い。

じゃあもう一つ質問させていただきます。何のために、教職員は、「君が代」を歌うんですか?

・・・教職員や公務員は、職務宣誓をしています。憲法、法令、条例に基づいて職務をしっかりすると言う職務宣誓をしている。だから条例に基づいて、ちゃんと仕事をすればいいじゃないですか。条例に「君が代は起立斉唱する」、入学式や卒業式の時に、子供たちの晴れ舞台の時に、起立斉唱するという風に、条例に定まっている。だからその条例に基づいて職務を全うする。服務宣誓をやってるじゃないの公務員は。・・・何がおかしいんですか。

じゃあ

答えてみなさいよ、なにがって。

一定に、その、歌いたくない先生にも歌わせる、っていうこともそれは憲法の中ですか?

条例は、国民に対してもやりたくないことを条例は命じてるでしょ。国民に対してみんな条例、みんな命じてるじゃないの。嫌なことでも。

それは憲法の範囲内だと思うんですけども。

それは憲法の範囲内かどうかは最高裁判所の解釈でしょ。あなたの解釈じゃないよ。

いや、だから市長の解釈を聞いてるんです。

条例は全然憲法に問題ないですよ。なんにも問題ないですよ。

最高裁は職務命令が合憲と言うところまでは言ってますけれど、その、守らせ方については言ってないと思うんですけれども。

条例を制定しただけですよ我々は。職務命令を出したのは教育委員会ですよ。そしたら教育委員会に確認しなさいよ。それが憲法に違反してるかどうかは。我々は条例を作っただけですよ。

・・・じゃ最後にお聞きします。じゃ市長が学校長だったら中原校長と同じ事をされますか?

当たり前ですよ。職務命令、起立斉唱ってのものが出てるんじゃないですか。子供たちに、音楽の課題を与えて、歌いなさいと言ったときに唇のチェックをしない音楽の先生がいますか。それがダメなんだったら教育委員会が、起立をするだけっていう命令に切り替えたらいいんですよ。君が代を歌うときには起立だけでいいっていう命令にしたらいいじゃないですか、教育委員会が。

・・・もう一つ、じゃ、何のために歌うのか教えていただけますか。これは一般論として。

我々が答えるべき問題ではない、あなたがなんにも取材もしてないしね、勉強不足なのにね、そりゃあやっぱり取材をする側としてはちょっと失礼ですよ。

いや、

あまりにも勉強不足。あなた

いやあの、市長あの、あのね、あの、

この方はどこの記者の方なんですか?

いや本社の、MBSの本社の

で市政担当でも何でもないでしょ、

ではないんで、

あー、全くだってもう事実から何にも知らないんだもん、

すいません、法律上ね、条例上問題ないのは、あの重々わかって

そしたらお宅のほうから、記者のほうから、ちゃんと知ってる人から聞いてくださいよ。

いや、あの、よく取材はしててわかってるんですけれど、ちょっと聞き方にちょっと、まあ、問題があったのかもしれませんけれどね、

だって何にもわかってないんだもん

条例上ね、問題がないのはわかってるんですけれども、

それは私もわかっていますよ、

アンケートの結果でね、やはり口元チェックについては、あの、二十、ま、過半数がですね、やはりちょっとやり過ぎだと思うと。だから条例上問題なくても、口元チェックはやり過ぎだと思うというのが、やはり校長の、過半数の校長の意見で、実際問題ない、当然だというのは、わずか三人しかいらっしゃらなかったんで、まあやはり一般的には、ちょっと問題だな、というふに考える方が多いんじゃないですか、と言うことをお聞きしたいんですが。

全然問題ないと思いますよ。それは世間一般に確認してもらったら良いんじゃないですか? もし問題あるんだったら教育委員会が命令の内容変えないと。起立斉唱命令を出したんですもん、全教員に対して。じゃ、我々命令出してね、なんでもいいですよ、市民の皆さんに命令を出しますよ、・・・たとえばたばこポイ捨ての禁止の条例でもなんでもいいですよ。ね? そのときに、ポイ捨てをしたときにね、ポイ捨て禁止の条例になってるのに「いや、それは普通に捨てるのはいいですよ、そこまではやり過ぎですよ、そんなことを取り締まったらだめですよ」って言えますかね?

ま、たとえば、陰に隠れてこそっと見てて、捨てるのを待って言わなくても、捨てるかもしれなかったら先に注意するとか、いろんなやり方があるというような、そういう、裁量の範囲内の話かな、と、

法の適用に裁量を求めていいんですか?

いやでもこの、あの、起立斉唱に関して校長のマネジメントの範囲っていうのがあるじゃないですか。

そしたらね、範囲の中だったら、それぞれの個人の主観と言いますかその裁量の範囲内でしょ? やり過ぎかどうかなんていうことをコメントを出すこと自体が失礼ですよそれは。裁量の範囲内じゃないですか。

いや、だからね、あきらかにダメです、って別にあの、こっちが断言してるわけじゃなくて、じゃ、じゃ、ではなくて

いや、ダメだダメだってそういう訳のわからないことばっかりいってるじゃん。じゃあ範囲内だったらなんにも問題ないでしょ?

いや、私も範囲内だっていうのはわかって***

それだったら教育委員会がしっかりそういうことをね、言ったらいいじゃないですか。口元のチェックまでしたらだめですよ、とか。

ダメとまではもちろん言えないと思う

それじゃあやってもいいわけじゃないですか。

ああそうです、やっても別に良いんですけど

じゃ、あとはやり過ぎかどうかなんてのはそれぞれの校長の判断なわけでしょ?

そう、そうなんですよ、でそこの判断のところは、やはり過半数の人がやり過ぎだと思うというふうに答えてるので、それについてはいかがですかと

そりゃ人数関係ないじゃない、裁量の範囲だったら。そういう風に思う人もいればそういう風に思わない人もいる。それぞれ尊重しましょうって言うのが「裁量の範囲内」でしょ? そんなところでアンケートとったって意味ないじゃないですか、裁量の範囲内なんですから。裁量のとらえ方なんですから。そんなところでアンケートで四十何人がやり過ぎだと思うって事を言って何の意味があるんですか。裁量の範囲内なんでしょ?

いや、ですから

だから、やる校長もいればやらない校長もいるわけだから、どっちが良い悪いなんてことを評価してはいけないでしょ、それは。ダメなんだったらダメっていっておくべきであってね、裁量の範囲内だったら、やる校長もいればやらない校長もいる。中原校長だってね、あなた全然取材も何にもしてないと思うけども、あの校長だって教育委員会とやりとりをやって、そのやり方を、本当に創意工夫というか、頭を悩ましたんですよ。三秒間、式を乱さないように、後方からぱっと目、あの、ぱっとその、各校長の口元を見た。その場で指摘はしない、式を乱すから。別室に行って、あなた歌ってるか歌ってないかっていうことを確認した。そこで、「歌ってましたよ」と言った人は別にお咎め無しですよ。そこまで追求しない、彼は。「歌ってない」というふうに認めた人を、教育委員会に報告したんですよ。何が悪いんですかそれの。歌ってないことをちゃんとマネジメント管理してるわけじゃないですか。あなたの質問の趣旨はね、一貫してもう、ぶれ始めてるわけ。じゃあ何のために質問してるか言ってくださいよ。質問の意図がわからない。

わかりました。

まず事実関係も勉強してない

わかりました。じゃあ中原校長のやってらっしゃる事に私は何も評価はしていません。ただですね、じゃあ、中原校長が「私の裁量権でこれをやりました」とおっしゃったんだったら私は納得します。だけれども、「教育委員会から命じられて」とおっしゃって、教育委員会が、口元チェックまで命じていないと思うんですね。

何を言ってるんですか。裁量は誰が与えたんですか。中原校長に、最初に始原的にオリジナルに権限があるんですか? だれがその裁量を与えたんですかそしたら。中原校長が、そのマネジメントをするその権限を与えたのは誰ですか?・・・言ってください。法の授権の話ですこれは。もう原理原則の当たり前の話もわかっていない。

教育委員

教育委員会が、口元をチェックもしてもいいし、やらなくてもいいし、やることも、その権限を与えたのは教育委員会の職務命令ですよ。

ですから

職務命令に従ってやったというふうに言って何の問題があるんですか。

全く問題ないです。全く問題ないです。

ええ、じゃあ何を聞いてるんですか?

・・・な、ど、どういうことですか?

いや何の質問なんですか?何にも問題ないんだったら何を質問してるんですかそしたら。

いや、でもアンケートの結果は、それについて、市長がおっしゃったように素晴らしいマネジメントだという結果にはなってませんので、そこをお聞きしたいんです。

いや全然、それは校長がそれぞれそういうふうに判断してるだけじゃないですか、素晴らしいマネジメントでいいじゃないですか。その範囲内できちっとチェックをした。歌ってないという人をちゃんと報告してるじゃないですか。それマネジメントですよ、条例作って、歌ってない人を放置してたら、全然法の意味がないじゃないですか。起立斉唱という条例を作った。歌ってない人をきちんと報告をした。その報告の仕方は、式を乱さずに、本人の思想良心を害することなく、本人に「歌っていません」ということを認めさせて報告させたんですよ。こんな完璧なマネジメントどこにあるんですか。言ってください。

じゃあ***

じゃ、あなたのところで社内のルールはありますか?

***、すいません

社内のルールはあるのか、まず聞いてます。社内のルールある?

それはあるに決まってるじゃないですか。

チェックはしないの? そしたら。

そりゃチェックはしますけれども、

ねえ、MBS行ったら、トイレに入ったら、ここでたばこを吸うなとか、禁煙とかいろいろありますけどそれはチェックはしないの?

あの時間の無駄なのでちょっと

無駄じゃない。それは重要なの。・・・ルールを作ってチェックはしないの? MBSは。

チェックはしますけどチェックのしかたが色々

しかたは、色々あるけれども、教育委員会の裁量の範囲内でしょ? 中原校長は、教育委員会は口元をチェックしていいし、しなくてもいいし、そのあたりはどういうふうにするかは教育委員会が裁量与えたんでしょ? その範囲内でやってることに何が問題あるんですか。完璧なマネジメントじゃないですか。

あの、

思想良心を害したわけでもなく、本人に強制させたわけでもなく、本人に認めさせた。式典と違うところに出さして、そして式典でのチェックは三秒間だけの、ぱっとした一律の目視で、目視というか、目で見ただけ。そして別室に寄せて、連れてきて、「歌ってますか? 歌いませんでしたか?」。最初何人か呼んできたらしいですよ。歌いました、というふに言った人に対してね、それを否定するようなことは彼はしなかった。歌ったと本人が言ったんだったらそれでいい、口元が動いていようが動いていなくても、心の中で歌っていたらそれでいい、っていうふに彼は判断したんだ。完璧なマネジメント。他の四十何人の校長ってのはそういう法律もね、そういう知識がないから、強制しちゃいけないとか、一律にやっちゃいけないとか、四の五の言ってますけれども、彼は緻密に緻密に論理を構成して、こんなの裁判所行ったって、あ、あなたみたいな勉強不足の記者がね、いくら質問したってね、こんな論理は崩せませんよ。僕らはこれは緻密に緻密に、誰からも、どの法学者に言われても、破綻しないような論理を組み立ててきたんだから。そんな勉強不足のね、そんなのが何を言ったって無理なの。もしそれを言うんだったら、教育委員会のほうに、どういう命令を出したのか、校長に、校長に各校長に与えた権限はどの範囲なのか、しっかり勉強してからやらないと。

あの、最後の質問なんですけど、子供たち、子供たちに

いやいや、もっとね、そういう報道がね、誤ったような情報を伝えるから、中原校長は社会的に非常にね、大変な状況になってる。

あ、そうなんですか?

当たり前じゃないすか、ネットでも見てくださいよ。あなたみたいなそんなねトンチンカンな記者がね、色んなことを報道するからネット見て下さいよ。

でもメールを公表してくれても良いとおっしゃったのは

彼の覚悟ですよ。

え、それは橋下さんがお勧めになられたんですよね?

勧めじゃないです。二人で考えて、この、馬鹿げたこういうような状況を何とかたださなきゃいけないってことでね、僕がお願いをして、それで彼も合意をしてくれて出した。どういう状況になるかっつったら案の定、あなたみたいなトンチンカンな記者が、事実関係も知らずにワンワカワンワカああやって吠えまくってね、こうやって話したら何にもあなたの論理、な、もう、無茶苦茶じゃないの。なんにも、質問してることが、なんーにもここへ伝わってない。ちょっ、誰が聞いたってトンチンカンです、これはあの、全部あの、あのーまたホームページに出すから、いいけれどもトンチンカン、自分でトンチンカンさ、トンチンカンさ加減をわかってないの?

あの、市長のおしゃっている

じゃ、結局、じゃ質問、じゃ、まず質問を整理して、一から質問してもう一回。何が聞きたかったんすか僕さっぱりわからない。

あ、じゃ一番聞きたかったことを最後にお聞きします。あの、子供たちにですね、そのじゃあ卒業式入学式で、君が代を歌うと言うことは何の目的ですかと聞かれた場合、どういう風にお答えになられますか?

子供たちには我々義務課してませんよ。

・・・いえいえ、

教員に課してるんですよ、

じゃ、教員、先生が歌わなければいけないのは、どういう理由かと言うことを子供たちにわかるようにお伝えいただけますか。

国歌だからですよ。式典だからですよ。君が代、歌うときに、起立斉唱するのは当たり前じゃないですか。国歌斉唱って、式典で「国歌斉唱」って言ってるんですよ。じゃなんで、卒業式や入学式で国歌斉唱という儀式があるんですか? まずそこ答えてください。それをまず言ってください。

今のだと子供たちにはちょっとわかりにくいと思うのでどういう理由かを

じゃあ、じゃあ入学式や卒業式で、国歌斉唱っていうそういう儀式は要らないんですね? それこそ、じゃ大相撲でも、あの、ワールドカップのサッカーの試合でも、国歌斉唱ってことは要らないんですね?

あの、公立学校で、国歌を歌ってるっていうのは、それほど世界的に見ても多くはないと聞いてますけれども

公立学校や世界的に見てとかそうではなくて、でも歌ってるところもある。ある国によっては、ある国というかある地域によっては、映画を見終わった後にそこに国歌が流れる場合もある。色んな式典でそりゃ国歌を歌うところもある、公立学校なのか式典なのか、そこはいろいろ様々じゃないですか。

いえ、だからあの、市長の今のご説明だとそれは当たり前のことですね、というご説明だと思うんですが、子供たちにもっとわかるようにご説明いただけないですか。

それは、各学校でじゃあ親に聞くべきじゃないですか? そんなのは常識です。じゃあ入学式や卒業式で国歌斉唱しなくていいのかと、そういうふうに考えられるかどうかってことですよ。それはもう普通の感覚。理屈ではないんです。

それじゃ親に聞けって言った子供は「市長に聞いてるんです」ってなりますよね?

いやいや親がそうしたらじゃあ国民として親が言ったらいいじゃないですか。じゃあいやいやもう、あの、卒業式や入学式でね、国歌を歌わなくていいよっていうふな親が言われるんだったら、子供たちは歌わなくていいですよ。僕らが言ってるのは教員に対して言ってるんですよ。公務員に対して。公務員なんだから、彼らは。公務員で、日本のために、日本の国家から税金をもらって日本の国家のためにそりゃ仕事をしてるんだから、きっしょきっしょの式典で、国家を歌うなんて当たり前じゃないですか。そんなこと言い出したら、日本の、国歌斉唱の儀式、全部理由を問うことになりますよ。国民に対しては義務は課しません。歌うかどうかは自由です。子供たちも自由。親がどうしても歌いたくない、色んな考え方がある、うちの子供は歌わなくてもいい、着席しろってんだったらそれも自由ですよ。公務員に対して言ってるんだから子供たちに対してって話とは違うでしょう。我々が言ってるのは条例で決めてるのは公務員に対してルール化してるんですよ。話が無茶苦茶。国民に対しての義務じゃないわけ。

いや、そうじゃなくて教、じゃ先生に無理矢理歌わせることについて子供たちにどうご説明されるかということを

公務員だから。当たり前です。公務員だからですよ。大阪市の職員も、採用の任命式の時に歌わせましたよ。公務員ですから。きちんと日本国家のために働いてもらわなきゃ困るんですから。・・・憲法条例法令に基づいて。国民とは違うんです。憲法、法令条例に基づいてしっかりと職務をまっとうする、それが公務員なんです。公務員のじゃあ歌は何なのか。社歌は何なのか。国歌じゃないですか。MBSって社歌ありますか?

無いです。

社歌ないの。

はい。

ああ、だからこんな記者になっちゃっうんだ。・・・それは。・・・そんなの社歌を歌うじゃあ会社のところに取材行って、「なぜ社歌を歌うんですか」って言ってみなさいよ、取材を。公務員に対して、こっかの、我がこっかの、「国家の国歌」っつったらアレだけど、我が国の、その歌、国歌、社歌ですよ。それ歌うの当たり前じゃないですか。そんなのは。違うんですか。私立の教員に義務課してますか?・・・ねえ、

あのう、

公務員に対して義務を課してるんですよ。

もう、あのこれで最後にしますけども、13年前、野中広務さんが、一律強制はしないと、あれほど、くどく言ったのにと。大阪は大きなマイナスの一歩を踏み出したと、つい先日おっしゃったんですよ。

強制は国民にはしていません。

や、公務員も・・・

公務員はだって社歌なんだから。それは自由じゃないですか。社歌を歌う、大阪市の、市歌っていうものもありますよ。どういう歌をきちんと歌うのか、僕の、この組織の感覚では、公務員なんだから国歌歌ってよ、当たり前じゃないですか。

じゃ、歌えない方は退場すればいいということですか。

そうです、公務員やめればいいんです。そういう歌いたくないって言うんだったら公務員じゃない民間の企業行ったらいいじゃないですか。MBSなんか行ったらいいですよ社歌も何にも無いんだし。そんなもうトンチンカンな、もうあの記者、あの質問であろうが何であろうが採用してくれて、職務がまっとうできるんだからMBS行ったほうがいいんじゃないすか? ええ。歌いたくない人はみんなMBS行ったらいいですよ。

あの、・・・うっふっふっふっふ、ふっふっふ(=笑い声)、まああの、これで、あの、これぐらいにしときますけれども、

な、「これぐらいにしときます」ってなんですか、このあの、失礼な言い方はー。吉本の新喜劇でもねー、もうちょっと丁寧な対応しますよ。

どうもありがとうございました。

これあ、ちょっと、どうですかみなさんこの質問のしかた、「これぐらいにしときますけども」って。

や、あの、噛み合わないな、という風にちょっと私も感じましたので、

だって勉強してないんだもん。

や、市長が私の答えていただきたいことにお答えいただけ***もありました。

だって、事実関係なんにも勉強してないんだもん、答えようが無いじゃない。命令のその、主体も、命令の対象者もわかってないし。「一律に強制してどうなんですか」って、教育委員会が決定してるんじゃない。全教員に対して歌いなさいよって職務命令出したんじゃないの。そんなことも知らずに「一律に強制が」「一律に強制が」って、一律に強制したのは教育委員会じゃないの。

それは知ってますよ、だから。

だからそんなの知ってるも何もそれを質問でね、知ってますよって今あとづけで言ってるのはみんなわかってる。

あとづけじゃなくてですね、

で結局、だから、もう、全部ね、お宅が考えてた論理ってのはおかしいのはもうわかってる、まあ、本人は納得されないけど、もうここで明らかになったからいいです。こういう場でね、もうあの、MBSも、お宅みたいにトンチンカンな質問が出て、何がおかしいのかってのがよくわかったんでね。

ありがとうございました。

はい。

このあと予定ございますので、これで終わりまーす。

え、いいんですか、ほか、・・・(腕時計を見て)オーバーしちゃったんで、・・・いいですかね、・・・はい。

(終)


カテゴリー: 社会


田原総一郎氏への反論の試み

僕が、このブログで久しぶりに原発問題を取り上げようと思った、そのきっかけとなったのは、田原総一朗氏が日経BPネットに書いた、『「脱原発」を唱えるだけの風潮は危ない』という文章である。

http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20120118/296616/

僕自身は、3.11以降、原発には反対である。なぜ反対かは、以前このブログにも書いたが、原子力発電が、少なくとも地震の多発するこの日本で運転するには、あまりに危険なシロモノだと思うからである。だって、今回の福島第一原発の事故により、「国土の一部が失われたも同然」の状態になったのである。自分の家を失い、そして自分の土地にすら帰ることができないという人が大勢いる、そんな大変な事態になっているのだ。だから、(即時か段階的かといった意見の相違はあるとしても)大きな方向性としては「脱原発」が当然だと思うし、まさか、この期に及んで、原発を「廃止しない・推進する」という態度など、どうかしている、と思っていた。

いっぽう、田原総一朗という人は、僕が学生の頃に既に第一線で活躍していたジャーナリストであり、気骨のある「まともな人」だとずっと思っていた。その田原氏が今回、『「脱原発」を唱えるだけの風潮は危ない』と言い出したのである。「脱原発」は、もう「常識といっても良いレベル」の考えだと僕は思っていたのに、僕よりも明らかに世界や日本のことをよく知っているはずの田原総一朗氏が、「脱原発」は危ない、という。田原氏は、いったいどうしちゃったのか。この疑問が、僕がこの問題を再考する、スタートであった。

そこで、自分自身の考えの整理も含め、田原氏への反論の形をとった文章を書いてみようと思い立ったのだが、何だかどうも引っかかるところがあり、まず、田原氏が文中で紹介している自著『日本人は原発とどうつきあうべきか 新・原子力戦争』を、とりあえず読んでみることにした。Webの文章というのは、要点だけ「かいつまんだ」文だったりするから、主張の背景となる著書を読んだほうが、よりきちんとした反論が書けるだろう、と思ったからである。

早速、田原総一朗著『日本人は原発とどうつきあうべきか 新・原子力戦争』を入手し、読んでみたのだが、その要旨は、上記の日経BPネットの文と、基本的に全く同じであった。しかし、著書を読み終えて、一つ発見したことがあった。田原総一朗氏は、実はWeb上でも書籍上でも、ある重要なポイントを、意図的にオミットしている(わざと書かないでいる)ということに、気づいたのである。いや、それを読者に気づかせるために、田原氏はわざと、ああいう文章を書いたのだ。たぶん。僕は、まんまとその意図に乗っかった、らしい。

田原氏の主張の内容は、上記の日経BPネットの文をお読みいただけば良いのだが、一応、僕なりに簡単に、下記に要約してみた。

田原総一朗氏の論旨:

・発電所の事故の危険性だけが「原発問題」ではない。
・原発は「放射性廃棄物」を生み出す。その廃棄物をどのように処理するかという問題も合わせて考えなければならない。
・石油の埋蔵量は限られており、石油供給の大きな部分を占める中東情勢の不安定要因もあるから、原子力は石油よりは「エネルギーの安定供給」に貢献する。
・しかし、ウランの埋蔵量も有限である。それでも日本が原発推進を進めて来たのは、「核燃料サイクル」という考え方に基づいている。
・原発から排出される放射性廃棄物を「再処理」すると「高速増殖炉」の燃料となるが、その「高速増殖炉」は、発電しながら新たな核燃料を作り出すことができる。この、燃料を再生産するサイクルを「核燃料サイクル」と呼び、これが実現すれば燃料供給の問題は大きく前進するはずだが、技術面では実現の見通しが立っていない。
・「脱原発」を叫ぶだけでは、上記のような放射性廃棄物の処理問題や、「核燃料サイクル」の研究まですべてストップしかねない。
・風力や太陽光発電で、現在の原発分の電力を補完するというのも、あまり現実味があるとは言えない。
・脱原発派は高速増殖炉を否定するが、しかし科学技術というものは「夢」がないと進歩しない。脱原発の一番の問題は、「夢」を全部消してしまうことだ。

だいぶ割愛したが、およそ、上記が、田原氏が「脱原発」と言うだけではダメ、という論拠である。

僕はこれを読んで、ずいぶん「おかしな話」だと思った。「放射性廃棄物の問題」というが、原発を止めれば、とりあえず放射性廃棄物はそれ以上には増えなくなる。「脱原発」によって「廃棄物処理問題」までストップしかねないというのは、話が飛躍している。原発の運転を止めても、廃棄物処理の研究は継続してできるはずだ。

また、最後の一項の、「夢」を消してしまう、というのも、明らかにバランスを欠いていると思った。原発は、今、現に、福島の人々の「夢も希望も」打ち砕きつつあるのである。そういう事態にあって、何が「夢」か。現在「核燃料サイクル」構想は、実現の見通しはとてつもなく遠く、ほとんど「破綻」と言っても良いような状態である。「高速増殖炉」なんて、実際に稼働できるとしても何十年も先だと言う。そんな、「頓挫しかかっている」研究が、国民の生活を危機にさらしてまで追い求めるような価値のある「夢」だというのか。

上記の箇条書きではうまく表せなかったが、とにかく、田原総一朗氏は、どういうわけだか「核燃料サイクル」と、その一環である「高速増殖炉」の重要性を、特に強調しているのである。なぜそこまで強調するのか。そこが、なんべん読んでも、僕にはアンバランスだとしか思えなかった。Webの文も、著書『日本人は原発とどうつきあうべきか』も、田原氏の主張が、あまりにアンバランスに思えてしかたない。

そこで僕は、田原氏が強調する「核燃料サイクル」「高速増殖炉」をキーワードに、自分でもう少し調べてみることにした。すると、そこには、僕が今まで気づいていなかった、別の「原発推進の意図」があることが、次第にわかってきた。そうだ、きっと田原氏は、読者にこの「別の意図」を気づかせるために、わざとこの問題をオミットして文章を書いているのだ、と僕は確信するに至った。

その問題とは!? と、こんなにもったいぶらなくても、知っている人には「何を今さら」なことなんだろうが、「核燃料サイクル」の一環である「高速増殖炉」で再生産される燃料、これは非常に純度の高い核物質であり、それは核兵器の材料となり得るのである。というか、むしろ逆に、「高速増殖炉」というのは、元々は核兵器の材料を作るための炉として開発された、と言っても過言ではない。たぶん。

こういうことを書くと、あわてる読者の中には「おいおい、今さら日本が核武装するとかの話? どういう時代感覚してんの?」とお思いになる方もいるかも知れないが、そういう話ではない。

日本の核武装を目指してる人がいるとか、そういう妄想の話をしたいのではない。日本は核武装は、しない。ただ、核武装するしないとは関係なく、「高速増殖炉」(原型炉[もんじゅ]の名前はご存知だろう)が、「核兵器の材料を作ることができる設備」であることは、事実である。実際、今までの試験運転などを経て、日本にはすでに、核兵器の材料にできる純度の高い核物質が、何十キログラムも存在していると言われている。しかし、いくら核兵器の材料になると言っても、日本においては、それが核兵器に転用されるようなことは、絶対にない。それが日本の「国是」である。

しかし。海外の国々は、果たしてそう信じるだろうか。

日本人は「普段はニコニコしているが、内心は何を考えているのかよくわからない」。あの連中、いったん気が狂うととんでもないことをするやも知れない。何しろ「爆弾を抱えた飛行機で敵艦に体当たりする」などという無茶な作戦をやるような連中だ。いざとなったら国際法なんか無視していきなり核ミサイルを超短期間で完成させちゃうかも知れない。なんたって日本人モノスゴク器用だし。そんで窮地に陥るとモノスゴク団結するし。

というような話を、アメリカが、どっかの国に対してアドバイスしている事態を想像してみてほしい。「日本は核兵器を作らないと、口では言っているけど、いざとなったら、やるかも知れない」と他国に思わせる。その恐れをいだかせる。これだけでも「核の抑止力」としては機能する。こういう方法を専門家は「技術抑止」と呼ぶらしい。おそらく、今現在、すでに[もんじゅ]は、そのようにも機能している、と思う。それはおそらく、アメリカの軍事戦略に組み込まれている。日米同盟に基づくアメリカの軍事戦略のために、日本の地域住民が危険にさらされるのを、やむなしとする。これは沖縄の基地問題と同じ構造である。

しかし、このような「軍事目的」については、日本政府は「口が裂けても言えない」。だって日本は核を「平和利用」以外に使わないのが「国是」なんだから。あくまで表向きの「平和利用」「発電」という目的を前面では保持し続けなければならない。もちろん、発電自体も原発の主目的の一つ(つうか当然そっちが主)である。しかし「軍事目的」が全くゼロということは、おそらく無いだろう。きっと少しはある。そこには上述のようにアメリカの戦略があるだろうし、あるいは、日本がアメリカの支配下から脱して軍事的独立への道を模索するような思惑、も絡んでいるかも知れない。そういう「国策」とか「国防」とかが関係していて、かつそれが、表向きの非核三原則という「国是」に反しているから、だから、原子力政策は、かくも不透明で、曖昧で、隠蔽体質にならざるを得ないのである。という仮説は、いかがだろうか。

このような想像力を働かせると、日本政府がなぜ原発を即廃止にしないのか、ということの、説明が、つきやすいとは思わないか。「脱原発」には、実はアメリカが難色を示している。あるいは、普通の原発(軽水炉)は止めてもかまわないが「核燃料サイクル」研究は継続せよという「アメリカからの強い要請」がある、のかも知れない。アメリカは、(あくまでアメリカのコントロール下で)日本に核兵器開発技術をキープしておきたい。だから、日本政府は「脱原発」に踏み切れない。

いやもちろん、それが全てではなかろう。原発推進派の人達が全員「アメリカの犬」だとは思えない。報道されているような「原子力村」の構造もきっとあるだろうし、自分たちの目先の利益のために国民の生命や健康を犠牲にするような連中も、きっとたくさんいるだろう。でも、そのような「私利私欲」「権力」「腐敗」といったレベルじゃない、敗戦国民である日本人である限りはどうにも抗えないような「強大な力」が、そこに、背景としてあるんじゃないだろうか。僕はそう想像するのである。

しかしこれらの話はすべて、僕の想像の域を出ない。僕のような一般人は、こういうことをこういうところに想像だけで勝手に書いても、所詮ネット上の戯れ言にしかならないから別に問題無いのだが、田原総一朗クラスの人は、たとえ確信があっても、具体的な証拠なく公の場に勝手なことを書き散らかすことは許されない。だから、田原氏は、あえて、自分が確信している「その存在」を示唆するために、あのような挑発的な書き方をしたのではないだろうか。

ずいぶんと話の風呂敷が広がってしまったが、最後に、僕自身の今の考えを、もう一度書いておく。色々考えても、それでも僕は、日本国内の原発は即時停止するべきだと思う。細かい議論は置いておいて「とにかく、まずは稼働中の原発の運転を停止すること」。その意義は、やはり大きいと思う。なぜなら、僕たちがすべきことは、世界戦略を妄想する前に、まず、目の前の、自分や家族や友人の危険を排除するように努めること、だと思うから、である。

参考文献:
田原総一郎 『日本人は原発とどうつきあうべきか 新・原子力戦争』 PHP研究所
加藤典洋 『3.11 死神に突き飛ばされる』 岩波書店


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食わしていく、食わせてもらう

正月に「ニッポンのジレンマ」という番組を見て、なんだかとても暗い気分になり、数十分だけ見てすぐ消してしまった。だって三十も過ぎたいい大人達が、今の日本社会の「何が悪くて、それは誰の責任か」ということを、延々と言い合う番組だったからである。その責任の中に、自分たち自身は決して含まれていない。この理路が、僕にはまったくわからなかった。

壮年層はもちろん、老人も子供も、その社会の「構成員」である。構成員であるからには、その社会の構造の一部である。だから、社会構造が「今のよう」になっている責任は、全世代にある。もちろん、全ての世代が同じ重さの責任を負っているわけではない。たとえば、生まれたばかりの赤ん坊には、今の社会構造がこのようになっている責任は、無い。しかし、社会に対する責任は、生まれた瞬間に発生し、成長とともにそれは次第に大きくなっていく。

人間は、自分が成長するのに応じて、自分の住む社会の構造に対して、だんだんと責任感を増していく。それが自然な姿である。しかし、「ニッポンのジレンマ」で口角泡して激論(というよりあれは愚痴の言い合いだ)をしていた三十代の連中は、この社会がこのようになっているのは「自分より上の世代の責任だ」と言い続け、この社会を自分たちで良くしていこうという気概が、ほぼゼロである。「上の世代のせいでこんなんなったのを、なんで俺たちが尻ぬぐいしなくちゃいけないんだよ」とでも言いたげである。

しかし、そういう「上の世代のせいにする」という発想は、(少なくとも僕らの感覚では)子供の発想である。僕ら自身がそういう物言いをしていたのは、だいたい高校生ぐらい、せいぜい大学生ぐらいまでだったと思う。

だいたい、「社会保障の分配の不公平」なんてものを、問題にすること自体が、なんて「小さい」んだろうって思う。まだまだ働ける年齢のうちから、将来の年金とかの心配をしていること自体に、「頼りなさ」を感じてしまう。

年をとって、働けなくなったら、誰かの世話にならなければならない。それは当たり前の話である。「今のままだったら自分たちは年金を受け取れない」とか言ってるが、世代間の交流が正常に行なわれ続ければ、君らが年を取ったときに、若い人たちがちゃんと世話をしてくれるはずである。しかし、三十代の君たちは今、年寄りの世代の世話をするという義務を捨てようとしていて、世代間でぶった切っておのおのでやれば良い、などという乱暴なことを言い始めている。君たちがそういうことを言うことによって、君たち自身の手で「年金を受け取れない」社会を作り出しているということに、なぜ気づかないのか。

もちろん、君らの言うことの中で、理解できることも多少はある。年金負担が不平等だという、それは確かにその通りなのだろう。しかし、数字的な不平等を計算して算出するのと、そこから「年寄りの年金を若い者が負担するのはおかしい」という帰結に飛躍するのでは、まったく意味が違う。

とにかく最近の日本人は、話を単純化しようとする傾向がものすごく強くなってしまった、と思う。何でもかんでもオール・オア・ナッシングで考えようとする。じっくりと考える「思考の忍耐力」が、すっかり失われてしまった。全てを金銭価値で考えるようになってしまったせいだろう。「貨幣」という宗教が、異常に浸透しすぎている、と言っても良いかもしれない。世の中の全てのものは金銭で購入できると考え、また、金銭に換算できないものは価値がないと考える、そんな今の日本人。

今、たまたま韓国に来ているからか、特にそう感じている。もうこんな住みにくい日本からは逃げ出して、韓国で暮らそうか、とすら思う。まあ実際的には冗談だが、気持ち的には本気でそう考えそうである。もし僕が国外に移住したら、日本から見ると、僕という人間の才能と能力が、国外に「流出」することになり、大きな言い方をすれば「国益を損なう」ことになる。

つまり、自分達の世代の不平ばっかりを言い重ねる「ニッポンのジレンマ」の連中の発言は、その発言自体が、国益を損なう行為なのである。もっとも、あの連中にすれば「国益なんて関係ねえ」ってことなのかも知れないが。

人間は子供から大人になり、やがて老いて、死ぬ。その間、その役割は順々に交代していく。誰かが誰かを「食わしていく」、誰かが誰かに「食わせてもらう」。この連環が続いているからこそ、社会システムは保持される。その環を切って、「自分達は自分達だけでどうにかする」という考え方になったら、社会システムは崩壊してしまう。自分が年とって働けなくなってから、システムを崩壊させたことを後悔しても、もう遅いよ。


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