イタリアに行ってきます

「四番倉庫」が15日で終わり、17日から山口入りしてYCAMでロボット演劇「働く私」、アンドロイド演劇「さようなら」の二本立てをやってました。20日に帰ってきたらいきなり原因不明の胃腸炎にかかり、38度以上の熱が出て大変な状況の中、23日に高山広さんの「劇励」の公演をどうにか無事に終えました。その後の三日ほどの休みで体調はどうにか回復しまして、明日28日から、来月11日まで、青年団「東京ノート」イタリアツアーに行ってきます。

向こうに行って余裕があれば、レポートしたいと思っています。


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劇場が演じる--「四番倉庫」の照明

二騎の会「四番倉庫」の上演が続いている(15日まで、こまばアゴラ劇場)。

「四番倉庫」は、題名の通り、倉庫を舞台とした作品である。このように「設定」が極めて具体的な場合、舞台照明家としての課題はかなり明確で、それは、光と影で「倉庫っぽい雰囲気」を作る、ということになる。

しかし今回の「四番倉庫」の照明は、単純にそのように作られてはいない。

そもそも「倉庫っぽい雰囲気」とか「美術館っぽい雰囲気」というものを考える際、それはいったい、どの範囲までのことなのであろうか。

古典的な考え方としては、言うまでもなく、「舞台」をその範囲とする。たとえば「倉庫」という設定であれば、舞台上は倉庫だが、観客席や、表のロビーなどはいつもの劇場のそれ、そのままである。

いっぽう、現代にありがちな作り方として、舞台と観客席を合わせた「劇場空間全体」を対象とする手法がある。大きな劇場ではちょっと難しいが、こまばアゴラ劇場のような小劇場の場合、「舞台と客席を合わせた劇場空間全体」を、たとえば「倉庫」といった、ある一つの統一した雰囲気に作り上げる、ということが可能となる。

また、僕たちの劇団青年団は、その代表作「東京ノート」を、いくつかの美術館を会場にして上演している。これは、上述の「劇場空間全体」を対象としてある雰囲気を作る、という考え方に、さらに「一回ひねり」が加わった、面白い試みと言える。「東京ノート」は、台本上の設定が「美術館のロビー」である。その作品を、本物の美術館のロビーで上演してしまっている。しかし、実際にその公演を実現するには、美術館のロビーに手をつけずそのままというわけにはいかないのである。そこで演劇公演を実現するためには、美術館のロビーには元々は備えられていないもの、たとえば「観客席」や、あるいは「入場券販売窓口」などの、「劇場」としての機能を、どうしても仮設で作らなければならない。

さて、こういった様々な新しい試みにチャレンジしているプロダクションに関わる幸運を、僕はこれまで多数いただいているわけであるが、それら全体を通じて、僕個人が、以前からずっと疑問に感じていることが、一つある。

たとえば小劇場で「客席も含めた劇場空間全体」をある雰囲気に作る方法、あるいは「東京ノート」で美術館を劇場に仕立て上げる方法など、いずれも、たしかに、おおむね、全体として「それっぽい空間」はできる。しかし、その中にあって、作り手の力ではどうにもならない要素が、一つある、ということを常々感じているのである。

それは、「他の観客」の存在である。

ほとんど、ほぼ100%、演劇の公演において、上演中は客席を暗くする。なぜか。なぜ僕たち照明家は、演劇の上演中に客席を暗くするのか。その理由は、極めてはっきりしている。「一人の観客にとって、他の観客の存在が邪魔になるから」である。上演中は、他の観客の存在が邪魔になるため、他の観客が見えないように、客席を暗くするのである。

しかし、前述の「劇場空間全体の雰囲気」を作ることと、「上演中の客席を暗くする」ことは、大抵は矛盾してしまう。「劇場」という場所は、上演中は、舞台がとても明るく、そして客席はとても暗いという、とんでもなく特異な空間である。そんな空間は、劇場以外には、あり得ないのである。だからそもそも、客席を含めた劇場空間全体を、ある雰囲気に作り上げる、などという試みは、原理的に成功するはずがない。

しかし、それでおめおめと引き下がるのも、ちょっと悔しい。でも事実そうなのだから仕方ない。
...しかし

「空間全体をある雰囲気に」することに成功している例が、実はある。「ディズニーランド」である。ディズニーランドは、来場者全体が「この世界に来てしまった」ということを巧みに演出することで、違和感なく空間の雰囲気を作ることに成功している。ディズニーランドの来場者同士には、「この世界に一緒に来ちゃったね」という合意がある。だから、その空間演出にも、自然に合意することができるのである。

今回の「四番倉庫」の公演で目指しているのも、それであろうと、僕個人はとらえている。観客のみなさんが「四番倉庫」に連れてこられてしまった。その雰囲気や空気を、どうやって作るか。観客同士に、どうやったらその「合意」を共有してもらえるか。どうすれば、一人の観客が、「他の観客」を、邪魔だと感じないようにできるか。

それは、リアルな「倉庫」を写実的に再現しても、おそらくうまくいかない。こまばアゴラ劇場が「倉庫」ではないことは、観客全員が知っているわけで、いくら「倉庫っぽい」雰囲気を作ったとしても、それは、「ああ、上手に倉庫っぽくなってるね」という感想を持つだけで、そこにはリアリティは感じられないだろう。

そこで、僕は、もう一回、ひねって考えてみた。こまばアゴラ劇場を「倉庫に見せる」ことは、真のリアリティとしてはできない。しかし、だったら、「倉庫を劇場にして公演する」ということ全体を、アゴラ劇場を使って演じる、ということはできるんじゃないか、と。

「東京ノート」は、美術館のロビーを劇場化して上演を行なったのであった。

「四番倉庫」は、空き倉庫を劇場化して上演を行なう、ということ、その全体を、アゴラ劇場を使って演じてみる、ということを試みている、と僕はとらえている。

「東京ノート」を美術館で上演する場合、美術館には元々は備えられていない、「劇場の要素」を仮設で作る必要があった。

「四番倉庫」においては、「仮に倉庫で演劇の上演をするとしたら、劇場の要素として何を仮設で作らなければならないか」を考え、それを「仮設で作るという行為」、その全体を「演じて」いるのである。

こまばアゴラ劇場には、元々客席がある。それをわざわざ分解し、まず「倉庫」空間を作る。そこに、「倉庫で演劇をやるならこういう感じかな」という、仮設の舞台と客席を、わざわざ作る。もちろん照明もである。その空間全体が「演技」なのである。そのような、「空間全体が演じている」場所なら、観客同士も、「こんな所に来ちゃったね」という感覚を、共有してもらえるのではないだろうか。「四番倉庫」は、そのような試みであると考えながら、照明を作った。

僕個人的には、「四番倉庫」は、演劇のリアリズムを信じられなくなってしまった未来の人類が、その果てに、それでも演劇を求めざるを得ないとしたら、いったいどのような演劇を作ろうとするのか。それを想像し、それ全体を演じた、「未来の演劇の形」だと思っている。

今回の「四番倉庫」は、まあそんなふうにとらえて、取り組んでみた。しかしそんな僕の真意の具体的なところは、観客の皆さんに伝わる必要は、もちろんない。「この空間って、なんだか居心地が良いな、or、悪いな」というふうに、どっちでも良いので、なんとなしの「ずれ」を観客に感じてもらえれば、僕個人的には、試みは成功だと思っている。


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デスロック「LOVE」inジュヌビリエ(2)

楽日(27日)。劇場は16時までもう一つのカンパニーの稽古で使用。16時~17時が転換時間。僕は、「早ければ17時に」フォーカス復帰ができる、と前日に言われていた。してみるとなんと、早くも17時を少し過ぎた頃に「フォーカスができる状態になった」という連絡。劇場に行ってみると、確かに、見事に仕込みが復帰されている。うーむ、やっぱり、こいつらも本気出せば実は「やればできる」んだな。なかなかしたたかだ。
しかし、すぐにフォーカスに入らず、「まだ時間があるのでカンパニーのミーティングに出てくる」と言い残して、デスロックのみんなのいる稽古場(同一建物内)に行ってミーティングに参加。すぐにフォーカスしなかったのは別に意地悪じゃないよ。だって本当に時間があったんだから。
ミーティングの席で「色々とご心配をかけましたが、今日はあとフォーカスだけすれば良い状態になっているので、早ければ18時過ぎには舞台を使えます」と報告。
17時半頃、ステージ仕込みを再フォーカス。
18時過ぎ、フォーカス完了。俳優たちに舞台を明け渡す。
19時半、最終回の本番。すごく良い拍手をいただいた。
カンパケ後、自分のPCとDoctor-MXをバラし、さっさと引き上げ。バラシにはノータッチ。今回はフィルターすら持ち込んでないので、僕は本当にバラシには関係ない。っつうか、バラシっていうより、次のカンパニーへの仕込替えだから、手伝えることは無い。なので、一階のカフェでみんなと乾杯。

--照明の仕事は、ここで終了--

その後、21時半から別の公演を見に行く人もいたが、僕はちょっと元気がなかったのでそのまま飲み続ける。すると、芸術監督のパスカルが「フィンランド? フィンランド?」と、もう一つの劇場(プラトー1)でやってるフィンランドの演劇に(途中入場だが)熱心に誘ってくる。そこまで言うなら、とこそこそと入場して最後の数十分を見たら、すげえ面白い。見て良かった。

その夜は、元気のある数名で劇場のそばのピザ屋に行って引き続き談笑。
翌日は、みんなで、アベスのものすごく美味しいイタリアンで昼食。

備忘:店の位置=
http://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&ie=UTF8&brcurrent=3,0x0:0x0,1&ll=48.885148,2.335898&spn=0.00109,0.00225&z=19&layer=c&cbll=48.885254,2.335977&panoid=eb90OY67_ZzJk6GVeyHT7Q&cbp=12,241.67,,0,12.34

美味しかったねぇ。

その夜、20時発の飛行機で帰国。

有意義な旅でした。


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デスロック「LOVE」inジュヌビリエ

東京デスロック「LOVE」の、フランス・ジュヌビリエ国立演劇センター公演に同行しています。

プロダクション全体のレポート等は他の人にまかせることにして、僕は照明の経過だけを書き記します。
これを書いている時点の今日は、5月27日、二日目(楽日)の小屋入り前です。

仕込み日(23日)。このフェスティバル(tjcc)では、僕たちともう1カンパニーとで一つの劇場(プラトー2)を共有するので、その二つの仕込みを合わせた照明を、この日の内に仕込む。仕込みは劇場のスタッフが全てやるので、僕らは観光にでもどうぞ、と言われた。しかし2カンパニー分とは言っても、両方で100台ぐらいの仕込み。僕らの感覚では、朝からやれば、まあ普通に行って午後ぐらい、遅くとも夕食ぐらいまでには、吊り込み、回路とり、色入れ、パッチぐらいは終わる量である。だから「夕方ぐらいまでに仕込みができたら、僕たちの分だけでもフォーカスを少しやってみないか?」と提案してみたら「仕込みは夕方には出来上がらない。フォーカスは明日」とあっさり拒否された。チャンネル表を渡してパッチだけでもやってもらおうと思ったが、それも拒否された。しかたないのでその日は彼らにまかせることにする。

翌日(24日)、フォーカス&舞台稽古の日。朝行ってみると、吊り込みはさすがに出来ていたが、フィルターやGOBOが入っていない。フォーカスの時に入れれば良いということなのだろうか。

ディマー番号の入った図面を渡され、チャンネル番号を書き入れるように求められたので、書く。それに基づいてパッチ。

僕の仕込みは、舞台上部の仕込みはすべてキャットウォークにした。なぜなら、キャットウォークなら上に上ってフォーカスできると思ったからだ。しかしフォーカスはジニータワーじゃないと出来ないという。まあたしかに、バトンがキャットウォークの踏みづらより低いので、やりにくいことはわかるが、どうなんだろう。(あとで直し作業のために自分でキャットウォークに上がって見たら、たしかに通常よりはちょっときついものの、上からぜんぜんフォーカス可能であった)

さて、用意されたフィルターとGOBOを見るとGOBOが2枚しか見あたらない。GOBOは8枚使うよう図面上で指定してある。「あと6枚はどこにある?」と尋ねると、「8枚必要なことを自分も今知った」「この劇場には2枚しか無く、注文すると三週間かかり、それでは間に合わないので注文しなかった」とか言ってる。冗談きつい。こちとら図面は二週間以上前に送って「問題ないか?」と尋ねて「問題ない」という返事をもらっているのである。どう考えても彼らの手配ミスである。僕が「事前にわかってれば日本から持ってくることもできたのに、なぜ言ってくれなかったのか」と尋ねると、「僕は知らなかったのでわからない」「10時半にボスが来るので聞いてみるが、話が行き違った理由は彼もたぶんわからないと思う」とか、のらりくらりと答えやがる。「8枚無いと困る」と言っても、「実際解決方法が無い」「注文すると三週間かかる」「最悪、僕が勤めている他の劇場から借りることはできるかも知れないが、確証はないし、今日中は無理だ」などと言う眠たい返答。さっきから言ってる内容が一貫していないので、明らかに「いいわけ」である。この場だけを切り抜けようとする態度がありありで、誠意というものが全く感じられない。しかし要するに、結論としてはこの場には2枚しか無く、それしか使えないということだ。しかたないので6台をカット、GOBOの仕込みは2台のみとすることにした。

ジニーでのシュートが終わったら、床のリノを敷いて、SSを置くという手順なのだが、リノを敷くのもスタンドを置くのも回路を取るのも、実にちんたらちんたら作業しやがる

SS用のスタンドの高さだって、図面できちんと指定してあるのに、その範囲を超える高さのスタンドが用意されている。「床ぎらい」で使うので、これではちょっと高過ぎだ。スタンドはこれしかないのかと尋ねると「無い」と即答。じゃあブースにあるあの低いスタンドは何なんだよ、と、尋ねるのもめんどくさい。敵はこのように、こちらのやる気をそぐような対応を重ねてくる。本当に気分が滅入る。パッチとシュートだけなら午前中で楽勝と前日の段階では思っていたが、フォーカスが終わって実際に舞台稽古に入れたのは16時ごろだったか。

その翌日(25日)。別カンパニーに劇場を明け渡さなければならないことは知っていたが、それがどのレベルのものなのか事前に説明が無かった。どうなんだろうと思って劇場に行って、中をのぞいてみると、昨日フォーカスしたステージの仕込み全てが、僕に相談無く勝手にぜんぶ撤去されていた。

その翌日(26日)。僕たちの初日、劇場スタッフが舞台と照明の復帰作業を朝10時から開始するという。10時過ぎに僕も一応来てみると、まず、10時に仕事が始まってない。全員そろってない。10時半ぐらいからちんたらちんたら仕事しやがって、ステージ回路もバラす時に何も考えずにただバラしちゃってるから、もっかい仕込んでもう一度回路を送りながら「どれが何番」とかやってる。効率が悪いことこの上ない。「何か手伝えることはないか」と申し出てみると「今こちらで集中してやってるのでコーヒーでも飲んでてくれ」だと。僕は、このペースにつきあってたんじゃ絶対間に合わないと思ったので、パッチ作業に無理矢理介入することを決断。通訳さんをブースに連れてきて、「この図面に書かれた番号を順に読み上げてあげて下さい。まずこの番号を言って、つぎに隣のこの番号」と指示し、パッチを仕切る。

フォーカスもこいつらと一緒にやってたんじゃ、とてもじゃないけど間に合わないと思ったので、Doctor-MX+無線LANルーター+VNC+iPhoneでワイヤレスのリモコンを構築。iPhoneで照明がつくことに仰天している劇場スタッフをシカトしながら、一人でiPhoneでフェーダーを上げながら一人でステージのフォーカスを進める。だってそうしないと間に合わないもん。すると劇場スタッフが「僕はここにいる必要があるか?」とか尋ねやがる。内心むかつきながら「フォーカスが終わるまでは念のためいてください」と答える。当たり前だろ。ようやく、稽古開始予定の13時の、10分前にフォーカス完了。ぎりぎりです。もちろん僕は昼食抜きでそのまま舞台稽古に突入。その日は15時半ゲネ、19時半と23時に本番。

23時の本番終了直後、「明日も、もう1つのカンパニーが劇場を使うので、今朝と同じ状態に、ステージ仕込みをバラさなければならない」と、いきなり言われる。聞いてねえよ。翌日にもう一つのカンパニーの「稽古」で劇場を使うというのは、たしかにスケジュール表には書いてある。しかし、初日が開いた後、仕込んであるものをもっかいバラさなきゃならないとは聞いてない。「だったら、抜くコネクタに合い番ふっとくなりして、今朝みたいにイチから回路を探る必要の無いようにしてくれ」と言うと、「僕も今朝はそのことに気づいていた。昨日は僕じゃない者がバラしたのでうまくいかなかった。明日は僕が自分でバラすので大丈夫」という言いぐさ。こいつは要するに何かあると「自分は悪くない」ということしか言わない。言いわけばっかりの対応に、ついに僕もキレて、「あとさ、こういうことが事前にわかってたんならさっきの長い空き時間にコロガシの置き位置をバミるとか、やれることはたくさんあったんだから、そういうことは早く言って欲しいんだよな」と怒り顔で言い放った。すると「もう1つのカンパニーはここが初日で大変で、作品がすでに完成している君たちとは状況が違うのでなるべく優先してあげたい」とか「明日どれくらいのリハーサルが必要かがなかなかわからなかったので」とかゴチャゴチャ言うので、「要するに今決まったってことだろ?」と言うと、「いや、明日の昼間は劇場を空けてもらうことはスケジュール通りだ」という。あと「もうバスが出るので帰らないといけない」とか言う。コイツとここでこれ以上会話を続けると不愉快が増すばかりだと思ったので、「事情はわかった。明日は5時に来るからよろしく」と引き下がった。

以上が昨日まで。


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テク・ハラ

「セクハラ」という単語はもう、誰でも知っている。他に「パワハラ」という言葉もある。こういった「ハラスメント」について考察するときのポイントは、受け取る側(被害者)がどのように感じているか、ということを重視しなければならない点である。「ハラスメント」の多くは、加害側と被害側で感じ方が異なることが問題の根幹にある。そこで新しく「テクハラ」という造語を考えてみた。

【テクノロジー・ハラスメント】
職務上の地位や社会的な立場を利用し、業務以外の場で、あるいは業務の範囲を超えて、技術の提供を求める行為。テク・ハラ。例としては、子供の勉強を見てもらうために来訪した家庭教師にステレオコンポの配線をさせる、上司が私物のノートパソコンの不調を部下に修復させる、など。

この「テクハラ」は僕もたまに受けることがあるハラスメントである。「要求する側はあまり悪いことだと思っていない」「要求される側はイヤだと思っても断りづらい」など、多くの点でセクハラと共通する特徴がある。過去に僕が受けた「テクハラ」の中で一番ひどかったのは、ある医療行為者によるものである。その診療所には当時定期的に通っていたのだが、診療を受ける際の雑談を通して、僕がコンピュータ技術者であることがその医療行為者に知られるようになった。ある日、いつものように診療時間を予約してそこに行ったら、診療開始前に、患者が入るべきでないエリアに僕を案内し、そこにある自分のノートPCとディスクを示し、「このゲームソフトがうまくインストールできないので見て欲しい」と言う。 こっちは、身体に不調箇所があるから、診療を受けるために、わざわざ仕事の時間を割いてここに来ているのである。また、診療時間の「予約」というのは、その時間に診療するという約束を交わすことである。なのに、予約で来た患者をつかまえて、診療の前に、しかもゲームのインストールについて、技術提供を求めるとは、どういう神経の持ち主か。非常に腹が立った。しかしそれでもその時は、仕方なく言われるままに原因をある程度調査し、うまくインストールできない理由をコメントした(この、どうにも相手に従ってしまわざるを得ない状況というのが、いかにもセクハラに似ている、と思う)。しかし、そのあと診療の時間中に、勇気を出してこの不当な要求について文句を言った。相手は納得せず、非常に不満そうであった。そこではもちろんその後二度と診療を受けていない。ちなみに半年後にそこを通りがかったら、その診療所自体が消滅していた。


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