「再/生」[冬版]の照明 (ネタバレ無し)

「再/生」(冬のデスロック版)の照明の構成は、基本要素としては、

(1)三原色の地明かり
(2)白い明るいナナメ
(3)白い顔あて(シーリング)
(4)白くて明るいポチ
(5)SS
(6)三原色のフットスポット
(7)白のフットスポット
(8)ミラーボール
(9)影出し
(10)スラッシュ

である。

冬のデスロック版は、福岡、北九州、青森、富士見、の四カ所だが、富士見以外は設備の都合で、上記の内のいくつかを削ったりする必要があった。

最初の福岡ぽんプラザは、劇場としては照明設備は決して潤沢とは言えないが、それでもわりとまともなほうで、上記の内(8)と(10)以外は実現している。なお、(9)は最初から計画していたわけではなく、この福岡公演で偶然作られた。

次の北九州枝光本町商店街アイアンシアターは、かなり難しかった。使えるディマーはDX-402×4台、つまり1KW×16回路で、機材もかなり少ない。ここで作ったのは、(1)(3)(5)(7)(8)(9)だが、(1)(3)(7)(9)は機材数が少なく、かなり不完全なものである。また、ミラーボールは僕の私物を持ち込んだ。(1)の三色地明かりは、一色あたり2台だけ。地明かりと呼べるレベルのものではないが、一応舞台床面の7割ぐらいが一応色が染まる、ということで、どうにか使えるレベルまで持って行った。(3)は、クリップライトを14発。決して明るいとは言えない。(7)(9)はコロガシだが、これに劇場備品の○ウンドハウスの300Wのパーライトを使用。このパーが、とてつもなく暗い。形だけはパーライトだが、とても舞台機材とは言えない暗さである。もともと、この会場で「再/生」をやるには、劇場備品だけではとても無理だと思ったので、舞台用の500Wフレネルを10台前後借りた。この、「まともな舞台機材」をどこに使うかの判断が勝負ポイントだったと言える。熟慮の末、舞台機材は、(1)三色地明かりと、(5)SSと、(8)ミラーボールあてにした。

その次の青森アトリエグリーンパークも、北九州同様、もしくはそれ以上に制約が大きかった。とにかく機材が決定的に少ない。レンズスポットが13台と、VNのパーライトが10台のみである。この会場で実現したのは、(1)(4)(5)(7)(10)。ただし(10)は照明機材ではなく、ビデオプロジェクターを使ったので、厳密には舞台照明で仕込んだとは言いにくい。ミラーボールあてを作る余裕なんて全くない。(1)の三色地明かりは枝光同様、一色2台。しかし凸レンズ機材なのでぜんぜん舞台を取り切れない。しかたないので、かなり引いた位置から、フロントのように仕込んだ。VNのパーライトがやたらとあるが、地明かりにもSSにも使えないので、(4)ポチを二色作った。白とライトブルー。(5)SSは、スタンドがないので箱馬を重ねた上にT-1を置いて作った。これらはまずまず出来たのだが、問題は(3)=顔をフラットにとれる仕込みが無いこと。前明かりとして1KWを一台吊ってはみたが、舞台の三分の一ぐらいしかあたらない。フラットにはほど遠い。しかし演出家JNSKは「あとこれでどうにか、フラットなものがあれば」と僕に言う。この演出家は、僕が出来ないのをわかってて、それでも「あと一つ、これがどうにかなれば」と言うのである。普通なら、僕(たち)が「無理」と言えば演出家はあきらめるものである。しかし、JNSK君はあきらめない。それによって、僕のポテンシャルが最大限に引き出されることを知っているからである。考えに考え、ついに答えが出た。まず、前明かりの1KWライトの、レンズを外す。これでとりあえず広くは取れる。しかし拡がりすぎるので、黒アルミであたりを横長にカットする。それでも、一発だけだとサイドの前のほうがとれないので、客電用の小さな100Wスポットを舞台用に振り向け、前明かりの補助とする。これで、どうにかフラットな前明かりが出来た。やればできるものである。
(これを書きながら思いついたのだが、実はVNのパーをミラーボールあてにすることが出来たかも知れない、ということに今になって気がついた。惜しいことをしたかも知れない)

最後の会場、キラリ☆ふじみマルチホールは、これを書いている今の時点ではまだ初日前だが、(1)~(10)のすべてが仕込んである。さらに、別の要素も少し加えてみた。今までの全ての会場の中で、最も余裕がある仕込みである。しかし、完全に十分というわけではない。機材や回路がもっとあれば、さらに色々、やってみたい仕込みはある。

夏のツアーも含め、「再/生」ツアーは、とにかく制約の多い会場が多かった。おかげでかなり勉強になったし、僕の技術も高まったと思う。感謝。


カテゴリー: 照明


内田樹「呪いの時代」より

内田樹先生の、「呪いの時代」を読んでます。素晴らしい本です。とても感動した一説を引用します。

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 ここに腕力の強い人間がいて、おのれの力を誇示し、他人を威嚇して、金品を奪っていたとする。これは許し難いことだと誰でも思います。逆に、その例外的な筋骨の力を使って、足弱な人の荷物を代わって持ってあげるとか、道に倒れている木や岩を取り除いている人がいれば、「正しい使い方をしている」と思う。単純な理屈です。でも、同じことを知性についてあてはめようとすると、ほとんどの人は同意してくれない。知力だって筋力と同じだと僕は思います。たくさんある人はそれを使って困っている人の荷物を代わりに持ってあげればいい。それが知性のいちばんまっとうな使い方ではないですか。おのれの知力を使って人を圧倒したり、論破したり、揚げ足を取ったり、あるいは鮮やかな弁舌やトリッキーな議論を駆使して、自己利益を増大させるのは知性の人間的な使い方ではないと僕は思います。
 背の高い人は高いところの物を手が届かない人のために取ってあげることができる。鼻のいい人は鼻のきかない人のために「お鍋が焦げてますよ」と知らせてあげることができる。そういうものでしょう。自分に例外的に与えられた能力は、それを持たない人たちの役に立つように使うべきです。それを持たない人たちを見下したり、そのアドバンテージを利用して金儲けをするために使うものではない。

----内田樹「呪いの時代」P.187-188


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田原総一郎氏への反論の試み

僕が、このブログで久しぶりに原発問題を取り上げようと思った、そのきっかけとなったのは、田原総一朗氏が日経BPネットに書いた、『「脱原発」を唱えるだけの風潮は危ない』という文章である。

http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20120118/296616/

僕自身は、3.11以降、原発には反対である。なぜ反対かは、以前このブログにも書いたが、原子力発電が、少なくとも地震の多発するこの日本で運転するには、あまりに危険なシロモノだと思うからである。だって、今回の福島第一原発の事故により、「国土の一部が失われたも同然」の状態になったのである。自分の家を失い、そして自分の土地にすら帰ることができないという人が大勢いる、そんな大変な事態になっているのだ。だから、(即時か段階的かといった意見の相違はあるとしても)大きな方向性としては「脱原発」が当然だと思うし、まさか、この期に及んで、原発を「廃止しない・推進する」という態度など、どうかしている、と思っていた。

いっぽう、田原総一朗という人は、僕が学生の頃に既に第一線で活躍していたジャーナリストであり、気骨のある「まともな人」だとずっと思っていた。その田原氏が今回、『「脱原発」を唱えるだけの風潮は危ない』と言い出したのである。「脱原発」は、もう「常識といっても良いレベル」の考えだと僕は思っていたのに、僕よりも明らかに世界や日本のことをよく知っているはずの田原総一朗氏が、「脱原発」は危ない、という。田原氏は、いったいどうしちゃったのか。この疑問が、僕がこの問題を再考する、スタートであった。

そこで、自分自身の考えの整理も含め、田原氏への反論の形をとった文章を書いてみようと思い立ったのだが、何だかどうも引っかかるところがあり、まず、田原氏が文中で紹介している自著『日本人は原発とどうつきあうべきか 新・原子力戦争』を、とりあえず読んでみることにした。Webの文章というのは、要点だけ「かいつまんだ」文だったりするから、主張の背景となる著書を読んだほうが、よりきちんとした反論が書けるだろう、と思ったからである。

早速、田原総一朗著『日本人は原発とどうつきあうべきか 新・原子力戦争』を入手し、読んでみたのだが、その要旨は、上記の日経BPネットの文と、基本的に全く同じであった。しかし、著書を読み終えて、一つ発見したことがあった。田原総一朗氏は、実はWeb上でも書籍上でも、ある重要なポイントを、意図的にオミットしている(わざと書かないでいる)ということに、気づいたのである。いや、それを読者に気づかせるために、田原氏はわざと、ああいう文章を書いたのだ。たぶん。僕は、まんまとその意図に乗っかった、らしい。

田原氏の主張の内容は、上記の日経BPネットの文をお読みいただけば良いのだが、一応、僕なりに簡単に、下記に要約してみた。

田原総一朗氏の論旨:

・発電所の事故の危険性だけが「原発問題」ではない。
・原発は「放射性廃棄物」を生み出す。その廃棄物をどのように処理するかという問題も合わせて考えなければならない。
・石油の埋蔵量は限られており、石油供給の大きな部分を占める中東情勢の不安定要因もあるから、原子力は石油よりは「エネルギーの安定供給」に貢献する。
・しかし、ウランの埋蔵量も有限である。それでも日本が原発推進を進めて来たのは、「核燃料サイクル」という考え方に基づいている。
・原発から排出される放射性廃棄物を「再処理」すると「高速増殖炉」の燃料となるが、その「高速増殖炉」は、発電しながら新たな核燃料を作り出すことができる。この、燃料を再生産するサイクルを「核燃料サイクル」と呼び、これが実現すれば燃料供給の問題は大きく前進するはずだが、技術面では実現の見通しが立っていない。
・「脱原発」を叫ぶだけでは、上記のような放射性廃棄物の処理問題や、「核燃料サイクル」の研究まですべてストップしかねない。
・風力や太陽光発電で、現在の原発分の電力を補完するというのも、あまり現実味があるとは言えない。
・脱原発派は高速増殖炉を否定するが、しかし科学技術というものは「夢」がないと進歩しない。脱原発の一番の問題は、「夢」を全部消してしまうことだ。

だいぶ割愛したが、およそ、上記が、田原氏が「脱原発」と言うだけではダメ、という論拠である。

僕はこれを読んで、ずいぶん「おかしな話」だと思った。「放射性廃棄物の問題」というが、原発を止めれば、とりあえず放射性廃棄物はそれ以上には増えなくなる。「脱原発」によって「廃棄物処理問題」までストップしかねないというのは、話が飛躍している。原発の運転を止めても、廃棄物処理の研究は継続してできるはずだ。

また、最後の一項の、「夢」を消してしまう、というのも、明らかにバランスを欠いていると思った。原発は、今、現に、福島の人々の「夢も希望も」打ち砕きつつあるのである。そういう事態にあって、何が「夢」か。現在「核燃料サイクル」構想は、実現の見通しはとてつもなく遠く、ほとんど「破綻」と言っても良いような状態である。「高速増殖炉」なんて、実際に稼働できるとしても何十年も先だと言う。そんな、「頓挫しかかっている」研究が、国民の生活を危機にさらしてまで追い求めるような価値のある「夢」だというのか。

上記の箇条書きではうまく表せなかったが、とにかく、田原総一朗氏は、どういうわけだか「核燃料サイクル」と、その一環である「高速増殖炉」の重要性を、特に強調しているのである。なぜそこまで強調するのか。そこが、なんべん読んでも、僕にはアンバランスだとしか思えなかった。Webの文も、著書『日本人は原発とどうつきあうべきか』も、田原氏の主張が、あまりにアンバランスに思えてしかたない。

そこで僕は、田原氏が強調する「核燃料サイクル」「高速増殖炉」をキーワードに、自分でもう少し調べてみることにした。すると、そこには、僕が今まで気づいていなかった、別の「原発推進の意図」があることが、次第にわかってきた。そうだ、きっと田原氏は、読者にこの「別の意図」を気づかせるために、わざとこの問題をオミットして文章を書いているのだ、と僕は確信するに至った。

その問題とは!? と、こんなにもったいぶらなくても、知っている人には「何を今さら」なことなんだろうが、「核燃料サイクル」の一環である「高速増殖炉」で再生産される燃料、これは非常に純度の高い核物質であり、それは核兵器の材料となり得るのである。というか、むしろ逆に、「高速増殖炉」というのは、元々は核兵器の材料を作るための炉として開発された、と言っても過言ではない。たぶん。

こういうことを書くと、あわてる読者の中には「おいおい、今さら日本が核武装するとかの話? どういう時代感覚してんの?」とお思いになる方もいるかも知れないが、そういう話ではない。

日本の核武装を目指してる人がいるとか、そういう妄想の話をしたいのではない。日本は核武装は、しない。ただ、核武装するしないとは関係なく、「高速増殖炉」(原型炉[もんじゅ]の名前はご存知だろう)が、「核兵器の材料を作ることができる設備」であることは、事実である。実際、今までの試験運転などを経て、日本にはすでに、核兵器の材料にできる純度の高い核物質が、何十キログラムも存在していると言われている。しかし、いくら核兵器の材料になると言っても、日本においては、それが核兵器に転用されるようなことは、絶対にない。それが日本の「国是」である。

しかし。海外の国々は、果たしてそう信じるだろうか。

日本人は「普段はニコニコしているが、内心は何を考えているのかよくわからない」。あの連中、いったん気が狂うととんでもないことをするやも知れない。何しろ「爆弾を抱えた飛行機で敵艦に体当たりする」などという無茶な作戦をやるような連中だ。いざとなったら国際法なんか無視していきなり核ミサイルを超短期間で完成させちゃうかも知れない。なんたって日本人モノスゴク器用だし。そんで窮地に陥るとモノスゴク団結するし。

というような話を、アメリカが、どっかの国に対してアドバイスしている事態を想像してみてほしい。「日本は核兵器を作らないと、口では言っているけど、いざとなったら、やるかも知れない」と他国に思わせる。その恐れをいだかせる。これだけでも「核の抑止力」としては機能する。こういう方法を専門家は「技術抑止」と呼ぶらしい。おそらく、今現在、すでに[もんじゅ]は、そのようにも機能している、と思う。それはおそらく、アメリカの軍事戦略に組み込まれている。日米同盟に基づくアメリカの軍事戦略のために、日本の地域住民が危険にさらされるのを、やむなしとする。これは沖縄の基地問題と同じ構造である。

しかし、このような「軍事目的」については、日本政府は「口が裂けても言えない」。だって日本は核を「平和利用」以外に使わないのが「国是」なんだから。あくまで表向きの「平和利用」「発電」という目的を前面では保持し続けなければならない。もちろん、発電自体も原発の主目的の一つ(つうか当然そっちが主)である。しかし「軍事目的」が全くゼロということは、おそらく無いだろう。きっと少しはある。そこには上述のようにアメリカの戦略があるだろうし、あるいは、日本がアメリカの支配下から脱して軍事的独立への道を模索するような思惑、も絡んでいるかも知れない。そういう「国策」とか「国防」とかが関係していて、かつそれが、表向きの非核三原則という「国是」に反しているから、だから、原子力政策は、かくも不透明で、曖昧で、隠蔽体質にならざるを得ないのである。という仮説は、いかがだろうか。

このような想像力を働かせると、日本政府がなぜ原発を即廃止にしないのか、ということの、説明が、つきやすいとは思わないか。「脱原発」には、実はアメリカが難色を示している。あるいは、普通の原発(軽水炉)は止めてもかまわないが「核燃料サイクル」研究は継続せよという「アメリカからの強い要請」がある、のかも知れない。アメリカは、(あくまでアメリカのコントロール下で)日本に核兵器開発技術をキープしておきたい。だから、日本政府は「脱原発」に踏み切れない。

いやもちろん、それが全てではなかろう。原発推進派の人達が全員「アメリカの犬」だとは思えない。報道されているような「原子力村」の構造もきっとあるだろうし、自分たちの目先の利益のために国民の生命や健康を犠牲にするような連中も、きっとたくさんいるだろう。でも、そのような「私利私欲」「権力」「腐敗」といったレベルじゃない、敗戦国民である日本人である限りはどうにも抗えないような「強大な力」が、そこに、背景としてあるんじゃないだろうか。僕はそう想像するのである。

しかしこれらの話はすべて、僕の想像の域を出ない。僕のような一般人は、こういうことをこういうところに想像だけで勝手に書いても、所詮ネット上の戯れ言にしかならないから別に問題無いのだが、田原総一朗クラスの人は、たとえ確信があっても、具体的な証拠なく公の場に勝手なことを書き散らかすことは許されない。だから、田原氏は、あえて、自分が確信している「その存在」を示唆するために、あのような挑発的な書き方をしたのではないだろうか。

ずいぶんと話の風呂敷が広がってしまったが、最後に、僕自身の今の考えを、もう一度書いておく。色々考えても、それでも僕は、日本国内の原発は即時停止するべきだと思う。細かい議論は置いておいて「とにかく、まずは稼働中の原発の運転を停止すること」。その意義は、やはり大きいと思う。なぜなら、僕たちがすべきことは、世界戦略を妄想する前に、まず、目の前の、自分や家族や友人の危険を排除するように努めること、だと思うから、である。

参考文献:
田原総一郎 『日本人は原発とどうつきあうべきか 新・原子力戦争』 PHP研究所
加藤典洋 『3.11 死神に突き飛ばされる』 岩波書店


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食わしていく、食わせてもらう

正月に「ニッポンのジレンマ」という番組を見て、なんだかとても暗い気分になり、数十分だけ見てすぐ消してしまった。だって三十も過ぎたいい大人達が、今の日本社会の「何が悪くて、それは誰の責任か」ということを、延々と言い合う番組だったからである。その責任の中に、自分たち自身は決して含まれていない。この理路が、僕にはまったくわからなかった。

壮年層はもちろん、老人も子供も、その社会の「構成員」である。構成員であるからには、その社会の構造の一部である。だから、社会構造が「今のよう」になっている責任は、全世代にある。もちろん、全ての世代が同じ重さの責任を負っているわけではない。たとえば、生まれたばかりの赤ん坊には、今の社会構造がこのようになっている責任は、無い。しかし、社会に対する責任は、生まれた瞬間に発生し、成長とともにそれは次第に大きくなっていく。

人間は、自分が成長するのに応じて、自分の住む社会の構造に対して、だんだんと責任感を増していく。それが自然な姿である。しかし、「ニッポンのジレンマ」で口角泡して激論(というよりあれは愚痴の言い合いだ)をしていた三十代の連中は、この社会がこのようになっているのは「自分より上の世代の責任だ」と言い続け、この社会を自分たちで良くしていこうという気概が、ほぼゼロである。「上の世代のせいでこんなんなったのを、なんで俺たちが尻ぬぐいしなくちゃいけないんだよ」とでも言いたげである。

しかし、そういう「上の世代のせいにする」という発想は、(少なくとも僕らの感覚では)子供の発想である。僕ら自身がそういう物言いをしていたのは、だいたい高校生ぐらい、せいぜい大学生ぐらいまでだったと思う。

だいたい、「社会保障の分配の不公平」なんてものを、問題にすること自体が、なんて「小さい」んだろうって思う。まだまだ働ける年齢のうちから、将来の年金とかの心配をしていること自体に、「頼りなさ」を感じてしまう。

年をとって、働けなくなったら、誰かの世話にならなければならない。それは当たり前の話である。「今のままだったら自分たちは年金を受け取れない」とか言ってるが、世代間の交流が正常に行なわれ続ければ、君らが年を取ったときに、若い人たちがちゃんと世話をしてくれるはずである。しかし、三十代の君たちは今、年寄りの世代の世話をするという義務を捨てようとしていて、世代間でぶった切っておのおのでやれば良い、などという乱暴なことを言い始めている。君たちがそういうことを言うことによって、君たち自身の手で「年金を受け取れない」社会を作り出しているということに、なぜ気づかないのか。

もちろん、君らの言うことの中で、理解できることも多少はある。年金負担が不平等だという、それは確かにその通りなのだろう。しかし、数字的な不平等を計算して算出するのと、そこから「年寄りの年金を若い者が負担するのはおかしい」という帰結に飛躍するのでは、まったく意味が違う。

とにかく最近の日本人は、話を単純化しようとする傾向がものすごく強くなってしまった、と思う。何でもかんでもオール・オア・ナッシングで考えようとする。じっくりと考える「思考の忍耐力」が、すっかり失われてしまった。全てを金銭価値で考えるようになってしまったせいだろう。「貨幣」という宗教が、異常に浸透しすぎている、と言っても良いかもしれない。世の中の全てのものは金銭で購入できると考え、また、金銭に換算できないものは価値がないと考える、そんな今の日本人。

今、たまたま韓国に来ているからか、特にそう感じている。もうこんな住みにくい日本からは逃げ出して、韓国で暮らそうか、とすら思う。まあ実際的には冗談だが、気持ち的には本気でそう考えそうである。もし僕が国外に移住したら、日本から見ると、僕という人間の才能と能力が、国外に「流出」することになり、大きな言い方をすれば「国益を損なう」ことになる。

つまり、自分達の世代の不平ばっかりを言い重ねる「ニッポンのジレンマ」の連中の発言は、その発言自体が、国益を損なう行為なのである。もっとも、あの連中にすれば「国益なんて関係ねえ」ってことなのかも知れないが。

人間は子供から大人になり、やがて老いて、死ぬ。その間、その役割は順々に交代していく。誰かが誰かを「食わしていく」、誰かが誰かに「食わせてもらう」。この連環が続いているからこそ、社会システムは保持される。その環を切って、「自分達は自分達だけでどうにかする」という考え方になったら、社会システムは崩壊してしまう。自分が年とって働けなくなってから、システムを崩壊させたことを後悔しても、もう遅いよ。


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年は変わりましたが

1月1日に韓国から帰国しまして、新年の挨拶もする間もなく、昨日2日はガレキの太鼓「吐くほどに眠る」の通し稽古、その一回の稽古だけを元に、夜中まで照明プラン作成、そして今日は仕込みです。初日は6日。その間に「革命日記」の準備を進め、9日には韓国に渡ります。年初から飛ばしてます。

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